【阿久悠の生き方】5000曲の歌詞を残した作詞家は、昭和の時代に何を伝えたかったのか

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「歌が迷子になっている」

 阿久の墓は静岡県伊東市の自宅近くの海を見渡す山の上にあり、墓石には「悠久」と大きく刻まれていた。2012年の秋、お参りに行ったことがあるが、海風が心地よく、太陽の光がまぶしかったのをよく覚えている。墓は現在、東京都内に移転したが、阿久にとって伊豆の海と空は創作活動の原動力になったのではないだろうか。

 生涯に5000曲の歌詞を書き、シングル売り上げは作詞家としてはトップクラスの6800万枚強。オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)は企画から関わり、審査員も務めた「歌謡界の巨人」阿久は、常に時代と向き合ってきた。

「歌が迷子になっている。大人の歌がないので、王道に導いて欲しい」

 と八代亜紀(73)に伝えたこともあった。昭和が終わり、平成も終わり、令和になったいま、歌の詞にどのくらい力があるのだろうか。

 ここで阿久の簡単な経歴を振り返りたい。1937(昭和12)年2月7日、兵庫県の淡路島に生まれた。父親は警察官だった。

 この3カ月後に生まれたのが美空ひばり(1937~1989)である。阿久は終生、ひばりを意識していた。

《大体ぼくは意地の強い方なので、この人にはかなわないや、とはめったに思わないのだが、何故か彼女には、最初からかなうはずの人、という思いがあった》

 と著書「愛すべき名歌たち 私的歌謡曲史」(岩波新書)の中で告白している。

 世の中の動きに耳を澄ませ、あるときは過激な、あるときは斬新な言葉をちりばめ、言葉の魔術師といわれた阿久。真っ正面からひばりと向き合ってこなかったことは事実だろうが、実は逃げたのではなく、ひばりで完成した歌の本道とは違う道を歩みたかったに違いない。

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