【阿久悠の生き方】5000曲の歌詞を残した作詞家は、昭和の時代に何を伝えたかったのか

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 気がつけばもう師走。年の瀬の恒例行事の中でも多くの注目を集めたのが、「日本レコード大賞」をはじめとした数々の歌謡賞でした。何度も口ずさみ親しんだ歌を、1年を振り返りながら、あらためて噛みしめる……。かつて、そうした賞レースの中心には、常にこの人がいました。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。生涯に5000曲もの歌詞を残した作詞家・阿久悠さんの人生に迫ります。

「僕は怨念や情念は苦手」

 新聞記者歴35年。数え切れないほどインタビューをしてきたが、作詞家・阿久悠(1937~2007)ほど、そのとき発した言葉がいまも重く響く人はいない。

 亡くなる6カ月前の2006年11月。東京・六本木の事務所でお会いした。「男と女の愛をどう描くか」について話題になったとき、彼はこう言った。

「僕は大体、怨念や情念が苦手。虚無的な人間が一瞬だけでも虚無を忘れて愛に溺れ、愛に墜ち、熱が冷めるとやはり虚無の中にあるというのが好きなのです」

 このときは、阿久が作詞した「舟唄」(作曲・浜圭介、1979年)が効果的に使われた映画「駅 STATION」(1981年)の取材だった。主演・高倉健(1931~2014)。舞台となった北海道増毛町の居酒屋の女主人を倍賞千恵子(82)が演じている。

 雪がしんしんと降り積もる大晦日。赤ちょうちんがともる居酒屋で巡り合った男と女。お互いに言いようのない孤独を抱えていたからこそ、魂が揺さぶられるような刹那的な愛を感じたのだろう。

「最近は男と女の出会いが軽くなった。詞になる気配があまり感じられない」

 と語っていた阿久にとっては、まさにうってつけの映画だったと言える。

 ヒットメーカーとして時代に寄り添う言葉を探し続けてきた阿久は、「職業名は阿久悠」と称していた。腎臓にできたがんの除去手術を受けるため2001年9月、東京都内の病院に入ったとき、医師や看護師ら誰もが「阿久さん」と呼ぶことなく、本名の「深田公之さん」と呼んだ。

 そのときの心境を著書「生きっぱなしの記」(日本経済新聞出版社)でこう書いている。

《ぼくは、ぼくと社会を繫ぐ糸が断ち切られた気持ちになり、ただの六十四歳の、手強い病気を抱えた深田公之だと思い知らされるのである》

 阿久は、決して自分の本名が嫌いだったわけではない。本名・深田公之で生きた時間を恥じているわけでもなかった。三十数年、阿久悠と呼ばれてきただけに、阿久悠を取り上げられたような感覚が何とも心細くさせたのだろう。

 阿久が入院・手術をしたとき、64歳だった。今年、62歳になった私も入院・手術を何度か繰り返したが、62歳も64歳も決して若くはないと、病室にいてしみじみ思った。現役の新聞記者として、曲がりなりにも35年間、取材現場の第一線に立ち続けていただけに、「年齢なんて関係ない」と強がっていたところもあった。だが、病気であるという歴然とした事実を無視することはできない。阿久も年齢の重さを感じたに違いない。

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