なぜ娘はタイで命を落としたのか? 「慰霊の石碑」は消え、捜査線上の男は「事件と無関係」…“時効撤廃”を求めて現地に通い続ける「父親」の孤独な闘い
時効成立まであと4年――。
タイ北部のスコータイで2007年11月25日、大阪市出身の川下智子さん(27)=当時=が殺害された事件から16年が経った。殺人など凶悪犯罪の公訴時効が2010年に撤廃された日本とは異なり、タイには時効が存在する。殺人事件は20年だ。
犯人は未だに逮捕されておらず、刻一刻と時間が過ぎゆく中、智子さんの父、康明さん(75)は、タイでの時効撤廃を求めている。
「時効が成立してしまうと、犯人は無罪放免になり、大手を振って歩けるようになる。そんなことが許されていいはずがない。被害者の命は戻ってくることはなく、時効は遺族にとってあまりにも不公平な制度です」
そう語る康明さんの声には、静かな怒りがこもっていた。【水谷竹秀/ノンフィクション・ライター】
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「なかったことにはしたくない」
智子さんは事件発生当時、大阪を拠点とする劇団「空晴(からっぱれ)」に所属する劇団員だった。アジア各国を旅するのが好きで、その時はタイへ1人で行った。世界遺産にも登録されているスコータイの歴史公園で、仏教寺院「ワット・サパーン・ヒン」を訪れた際に何者かに刃物で襲われた。見つかった遺体の首には、2ヵ所の刺し傷があった。智子さんのパスポートとカメラなどが入ったショルダーバッグが奪われていたことから、タイの捜査当局は物取りの犯行とみて捜査を開始した。
「娘がそんな目に遭わされた国には行きたくない」
事件直後、康明さんはそう思い続けていた。ところが空晴の劇団員から「タイへ行ってお参りしたい」と背中を押され、翌年から毎年のようにタイへ足を運んだ。事件現場に建つ石碑に花を手向け、タイ警察の幹部から捜査の進捗状況の報告を受け、副首相や法相などの閣僚とも面会して事件の早期解決を訴えてきた。
そうして康明さんがこれまでにタイを訪れた回数は11回。同行する妻の分と合わせると1回の渡航に約30万円はかかる。国外で起きた犯罪被害者のために弔慰金200万円を支給する制度が2016年から導入されたが、制度が施行される以前に発生した事件は対象外。このため康明さんがタイへ渡航する費用はすべて自腹で、経済的負担がのしかかった。それでも現場へ足を向かわせたのは、事件を風化させたくないという思いからだ。康明さんが語気を強めて言う。
「事件をなかったことにはしたくない。起きたことは事実なので、行くことで世間には思い出してもらいたいです」
渡航に当たっては毎回、タイ政府や捜査当局と予定の調整をしなければならないが、それには在タイ日本国大使館が積極的に働きかけてくれた。
「タイの警察がどれだけ真剣に捜査をしてくれているのかは、私たちが日本国内にいる限りはよくわかりません。だから現地に足を運んで直接警察から聞かないといけない。そのための渡航の段取りを組んだり、タイ政府の要人に訴えたいことがある場合は毎回、在タイ日本国大使館の協力を受けていました」
連携できる「同志」がいない
国境を越えて思いを伝え続ける中で、日本国内で活動する遺族団体にも目を向けるようになった。
数年前、康明さんは殺人事件被害者遺族の会「宙の会」(事務局・東京都千代田区)の存在を知る。宙の会は2009年に結成され、時効廃止を求める集会や署名活動を行い、翌年、明治時代から130年続いた時効制度の廃止を実現させた。これに感銘を受けた康明さんもタイでの時効廃止の可能性を模索し始め、タイの法相に宛てた手紙でその必要性を訴えた。
「現地の報道機関にも訴えたほうがいいのかなと。あとはタイの有力な政治家にもはたらきかけたほうがいいのか。ただ、誰に伝えれば良いのかがわからないのです」
事件を機に、タイの情勢やニュースには着目するようになった。とはいえ現地の事情に精通しているわけではないため、有力な政治家となると調べなければならない。しかも康明さんの活動は基本、1人だ。「数の力」で動ける日本の遺族団体とは異なり、康明さんには連携できる「同志」がいない。ゆえにその闘いは孤独だった。
「タイで私のように動いている日本の遺族はいないと聞きます。だから横のつながりは難しい。日本国内の遺族団体に加入をさせてもらったとしても、国内と海外ではやはり事情が違うので、そう簡単にはいかないのかなと思います」
康明さんが最後にタイへ足を運んだのは2019年1月。以降は新型コロナの影響で渡航を自粛せざるを得なかった。そうして月日が経ち、時効成立まであと4年に迫った。
「正直、今から動いても間に合うのかなという不安はあります。それでも動けるだけ動いたほうがいい」
文化や捜査環境が異なる異国の地で、時効廃止に向けた思いは果たしてどこまで伝わり、そして理解してもらえるだろうか。
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