ベンチャーを大企業に育て上げるには何が必要か――千本倖生(京都大学特命教授)【佐藤優の頂上対決】
第二電電、イー・アクセス、イー・モバイルといった会社を次々に立ち上げて成功させ、「連続起業家」と呼ばれる千本倖生氏。81歳のいまも起業家精神は衰えず、大学ベンチャーに投資、学生らを応援する。ベンチャー成功の秘訣(ひけつ)はどこにあるのか。どんな会社が大企業になるのか。企業育成の極意を聞く。
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佐藤 近年、日本でも起業は珍しくなくなりました。さまざまな分野で、新しい発想と技術で社会的課題を解決しようとする会社が誕生しています。ただそれでも日本には「連続起業家」と呼ばれる人はほとんどいない。千本さんは、その名を冠される数少ない日本人の一人です。
千本 これまで日本は、自らリスクを取って起業することに、あまり価値を置いていませんでしたからね。果敢なチャレンジよりは現状維持、安定を求める傾向が強かった。でもアメリカでは、優秀な人ほど依存を嫌い、安定より変化や変革を求めます。例えば、ハーバード・ビジネススクールの最優秀クラスで上位の学生たちは、役人になったりコンサルティング会社に勤めたりはしません。みんな、小さくても自分でリスクを取ってベンチャーを興すんですよ。
佐藤 優秀な人ほど、0から1を作り出すことに価値を置いている。
千本 ええ、トップ層は起業し、2番手がコンサルや巨大企業、その次が役人に就職するという感じです。自分の意思と熱量でイノベーションを起こし、社会に貢献することこそ最大の価値なんですね。
佐藤 それがアメリカの原動力にもなっています。
千本 そして成功を得てもそこに安住せず、次のステージに向けて挑戦を続けるのが「連続起業家」です。アメリカでもっとも尊敬される生き方で、「彼は連続起業家」と紹介されれば、拍手喝采で迎えられます。
佐藤 千本さんには「通信業界の革命児」との異名もあります。現在はKDDIとなった第二電電(DDI)を起業されたのが最初ですね。
千本 はい、京セラの稲盛和夫氏の強力な指導の下、共同創業しました。
佐藤 もとは日本電信電話公社(現・NTT)の職員でした。ですからライバル会社を作ったことになる。
千本 近畿電気通信局技術調査部長時代のことです。稲盛さんの知己を得て、起業を持ちかけた。当時、日本の電話は電電公社が独占していました。それに危機感を覚えたんですね。
佐藤 何年くらいのことですか。
千本 1983年です。私は1966年に大学を卒業して電電公社に入り、翌年、フルブライト留学生としてフロリダ大学に留学、後に電子工学博士号を取りました。それからもジュネーブにあった国際電気通信連合の電気通信の規格を決める会議に代表の一員として出るなど、当時の日本人としては非常に多くの海外事情に接することができたのですね。
佐藤 早くから国際的な舞台に出られていた。
千本 あの頃、イギリスやアメリカといった国々では、もう電話事業は独占でなくなっていました。アメリカなら、グラハム・ベルが創業したAT&Tと競合する会社がどんどん出てきた。その中には以前、ソフトバンクが買収したスプリントという会社もあります。
佐藤 つまり競争原理が導入されたわけですね。
千本 はい。当時、東京-大阪間の約500キロの電話料金は、3分400円でした。ものすごく高い。職場から外に電話する時には「市外通話許可願」が必要だった時代です。
佐藤 市内通話は3分10円だったのを覚えています。
千本 それが市外通話だと跳ね上がる。でもアメリカなら、ニューヨーク-ロサンゼルス間は東京-大阪の10倍の距離ですが、料金は10分の1ほど。だいたいキロ当たり100倍の差がありました。
佐藤 100倍はすごいですね。しかも日本では電話を設置する際に、電信電話債券という公社債を買わなければなりませんでした。
千本 あれは当時、7万円ほどです。電話に代表される電気通信は国家の神経にあたると言ってもいいでしょう。その重要なツールの料金が非常に割高なのです。製造業でもサービス業でも、通信コストは商品の値段に上乗せされます。そうすると、日本の国際競争力が削がれることになる。
佐藤 その元凶が一社独占体制にあったわけですね。
千本 ええ。だから値段を下げるには、競合会社を作って健全な競争がある状態にしなければならないと考えました。
佐藤 就職先として電電公社は、高給で安定していて将来性もある。その中でそうした発想ができるのは、すごいですね。
千本 ちょうどその頃、電電公社は民営化を進めていました。
佐藤 中曽根政権下で臨時行政調査会が設置されて、国鉄、日本専売公社、日本電信電話公社の三公社の民営化が提言されました。
千本 そこで電電公社では石川島播磨重工業元社長の真藤恒(しんとうひさし)さんが総裁となって陣頭指揮を執るのですが、民営化しても競争相手がいなければ、独占は続きます。そこで電電公社の真藤総裁とぶつかってやりきれるアントレプレナーシップ(起業家精神)を持った経営者を探したら、稲盛さんがいた。
佐藤 当時、京セラはまだ巨大企業というほどではなかったでしょう。
千本 京都で5番目くらいの会社でしたね。もっとも経営内容は抜群で、内部留保が2千億円もありましたから、超エクセレントカンパニーです。私はその内部留保の半分を出してください、とお願いしたんですよ。当然、私はサラリーマンで、起業するお金はありませんでしたから。
佐藤 でも意欲と情報と国際的な人脈があった。
千本 その通りですが、お金がなくては何も始まらない。京セラの幹部は全員反対だったそうです。稲盛さんからは数週間後に電話が掛かってきて、「腹を決めた。考えに考えたけども、俺はやるべきだと思う。お前、明日辞表を出してこい」と、言われた。これが始まりです。
佐藤 稲盛さんは独特の経営管理方法「アメーバ経営」で知られます。どんな方でしたか。
千本 仏教的倫理観をベースに哲学や精神主義を企業経営に据えた偉大な経営者でした。ではありますが、極めて振り幅の大きい、激烈な指導者でしたよ。多くの人が仏様のように奉っていますが、若い頃は怒鳴りまくるし、夜中の2時3時でも電話が掛かってくる。会議では灰皿が飛んでくることもありましたね。
佐藤 そのくらいのエネルギーがないと、新しい世界を切り開いていくことは難しいのでしょうね。
千本 稲盛さんが素晴らしいのは、極めて高いエネルギーを持ちながら、年を重ねるに従って深く人間性を陶冶していかれたことですね。若い頃はゴツゴツした岩で、振り幅も大きかった。それが晩年は磨かれて素晴らしい宝石になったと思います。
佐藤 電電公社を辞めた時、千本さんは何歳でしたか。
千本 41歳です。電電公社の3LDKの社宅に住み、上は11歳から下は乳飲み子まで子供が4人いました。
佐藤 安定した生活を捨てることに奥様はどんな反応でしたか。
千本 当然反対すると思っていたのですが、「あなたが世の中のためにやるなら、やったら」と言ってくれたんですよ。家内も私もクリスチャンで、世界で最も貧しい人々のことを意識して生きている。家内は私よりはるかに信仰が深いですね。
佐藤 成功は確信されていたのですか。
千本 最初から1兆円企業にはなれると思っていましたね。いまはそれを遥かに超えて時価総額は10兆円を超えています。これは立ち上げた私でさえ、予想できませんでしたね。
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