「物価高」も「頻発する自然災害」も“お米”を食べなくなったせいである
慶長5年(1600)に行われた関ヶ原合戦の当時、日本の総石高は1,850万石程度だったという。
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徳川家康が率いる東軍が勝利した結果、西軍にくみして改易(取りつぶし)になった88家の大名から416万石余りが没収され、さらに毛利輝元や上杉景勝ら減封になった5大名から208万石余りが取り上げられ、さらに豊臣蔵入地(各地に分散していた豊臣家の直轄領)も削減されて、総石高の約40%におよぶおよそ780万石が、東軍で論功のあった豊臣系大名や徳川家康の家門、徳川家の譜代らに再配分された。
こんな話からはじめて、NHKドラマ「どうする家康」を話題にするのかといえば、取っ掛かりにすぎない。このようにかつての日本では、経済規模や国力が米の生産高で表されていたことを示すために、この例を持ち出した。
なんとなく大名などの領土を表す単位のように受けとられている石高とは、要するに、その土地の農業生産力を、収穫可能な米の量に換算して表示したものである。全国の土地を石高で表すようになったのは、豊臣秀吉によるいわゆる太閤検地以降だといわれる。田畑の租税負担能力が石高で表され、石高に応じて租税が割り当てられるとともに、大名ら領主が軍役等の諸役を負担する際も、石高が基準とされた。
ちなみに、1升(約1.5キロ)×10=1斗(約15キロ)、1斗×10=1石(約150キロ)。1万石の大名の領地からは毎年、1,500トンの米がとれたことになる。
このように日本の経済は、明治6年(1873)に地租改正法が施行されるまで、米が基盤となる米本位制だった。米にこそ貨幣的価値があった。江戸時代を通じて少しずつ貨幣経済が浸透し、米中心の年貢収入に依存する幕府や藩の財政は厳しさを増していったが、とにかく、各藩の規模も武士の給与も、みな米の生産能力で表された。
それはとりもなおさず、米が日本人の主食であり(現実にはなかなか米が食べられない庶民も多かったにせよ)、米にこそ安定した価値があったからである。
米を食べる機会を奪われた子供たち
さらにいえば、米は一定程度の保存がきくとはいえ数年が限界である。いずれ消費しなければ価値がなくなるため、経済に重要な循環が否応なく生じる。これも米が貨幣になりえた理由だと考えられる。
明治になると、先述したとおり地租改正で土地に対して一律に課税されるようになり、それまでの米による物納が金納に改められた。しかし、それによって日本人の生活における米の価値が減じたわけではなかった。
明治政府は明治6年(1873)、新暦の11月23日を新嘗祭として、国家の祝祭日に定めた。秋に米の収穫を感謝する新嘗祭自体は、『日本書紀』にも記された神々に由来する行事でもあり、それを国民の祝日にすることには、国家神道よる天皇の権威づけという側面もあった。しかし、一方で、稲が凶作では人々の生死に関わるため、収穫に感謝する新嘗祭は国民にとって重要な行事とされた、という面も大きかった。
すべてが転換したのは戦後である。昭和23年(1948)、GHQの指令によって新嘗祭は勤労感謝の日に衣替えした。収穫のよろこびを分かち合うというこの行事の根源的な意味が奪われ、なにを感謝する日なのかわからなくなってしまった。
そして食の西洋化とともに、日本人の主食である米の消費量が減少していったが、その大きな原因は学校給食だと考えられる。戦後の学校給食はパンと牛乳が中心で、米が出されることはほとんどなく、私は昭和50年代まで給食を食べたが、米が出された経験は一度もない。近年は米も出されているが、たいてい2回に1回程度にすぎない。
学校給食は教育の一環だが、そこから箸を使って米を食べる機会が奪われれば、米が中心の食生活が大きく変化するのは当然である。なにしろ、子供たちは一日三食のうち、1回は確実に米を食べないのである。代わりにパンを食べる日々が何年も続けば、米離れにつながらないほうがおかしい。
物資不足のなかではじまった戦後の学校給食が当初、アメリカからの支援物資を使う必要があったのは仕方あるまい。戦後しばらくは米価が高く、各学校に炊飯設備を整えるのも困難で、アメリカから提供される小麦を使ったコッペパンが出されたのも、やむをえない面がある。だが、日本はいわゆる「戦後」を脱してからも、給食という教育の場において伝統的な主食たる米が排除されている状況に、無頓着でありすぎた。
その結果、日本人一人が1年間に食べる米の量は昭和37年(1962)の118キロをピークに減少し、令和2年(2020)度にはその半分以下の50.8キロになっている。米離れに対応して政府は、米の作付面積を減らすために農家に転作支援金を支払う減反政策を、昭和46年(1971)から本格的に開始。かつては石高制を支え、明治以降も国民に主食を安定供給するために拡大されてきた水田は、全国で減少の一途をたどってしまった。
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