【田中好子の生き方】今も胸を打つ葬儀で流れた本人メッセージ 女優として成功した背景に“苦闘のキャンディーズ時代”

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チャンスをつかむために努力してきた

 ここでスーちゃんの経歴について、ごくごく簡単だが振り返ろう。

 1956(昭和31)年4月、東京・足立区で釣具店を営む両親の次女として生まれた。荒川の川岸に「田中釣具店」という大きな看板があったのを私は覚えている。

 小学生のころから歌がうまく、町内の民謡研究会に入り発表会で「ソーラン節」などを披露した。69年、渡辺プロダクションが経営する東京音楽学院に入学。スクールメイツのメンバーに選ばれる。72年、NHKの歌番組「歌謡グランドショー」のマスコットガールのオーディションに伊藤蘭、藤村美樹とともに合格。3人組は「キャンディーズ」と命名され、73年に「あなたに夢中」で歌手デビューした。

 その後の華々しい活躍については読者の方々がよくご存じだろう。キャンディーズは78年に解散したが、スーちゃんは80年に女優として復帰する。当時を振り返り、こう語っている。

「キャンディーズのころは周囲が敷いてくれたレールを夢中で走り、1人で復帰してからは、その名に恥じぬようにと、がんばってきました。私はチャンスをつかむために努力してきた人間、その積み重ねがあったからこそ今まで乗り切ってきたと思う。一生懸命の25年かなあ」(朝日新聞・98年10月29日夕刊芸能面)

 テレビドラマに、映画に、ドキュメンタリー番組のナレーションに才能を発揮し、フル稼働していたスーちゃん。「休みの時間をどう使っていいか分からないぐらい仕事が楽しい」とまで語っていた。だが、乳がんのため19年もの長きにわたって闘病生活を強いられていたとは。

 振り返ると、「普通の女の子に戻りたい」と発言しキャンディーズ解散を表明したときは、心身ともに相当疲れていたのではないだろうか。自分が仕事だけをこなすロボットのように感じられ、なぜ自分は歌うのか、なぜ自分は芸能界で働くのか、本当の生きがいが見出せなかったのではないか。

 そうした彼女自身の苦闘の過去が「生きるバネ」となり、復帰後は味のある演技もこなせる女優として大きく羽ばたくことになったと思える。でも、「大女優」という言葉はスーちゃんには似合わない。生前こんなことも言っていた

「こんな女優になりたいとか、こんな役をやりたいとか、と気張るのはあまり好きじゃありません。自然に続けていきたいんです」(朝日新聞・89年11月25日夕刊経済特集面)

どこまでも自然体で

 自然体だったのだろう。1991年に結婚して家庭を持つようになってからは家計簿をつけていたといい、近所のスーパーで買い物をしてもレシートをきちんともらっていたという。

 日常の買い物もマネジャー任せの芸能人がいる中、なかなか立派な家庭人だったのではないか。庶民として普通の生活感覚を忘れたくなかったのかもしれない。

 スーちゃんと誕生日が同じコラムニストの泉麻人(67)は、キャンディーズ時代の雰囲気をこう分析する。

「サークルで一緒に活動している女の子みたいな身近さが最高の魅力だった。普通の女の子に戻りたいと引退したが、最初から『普通の女の子』キャラを演出し、学生運動後のエネルギーをもてあましていた大学生らは、サークルのノリで応援した」(2010年2月6日 朝日新聞夕刊be)

 1977年、国民的アイドルグループとしての絶頂期、コンサートで突然、解散を宣言してから46年。ランちゃんが今年、NHK紅白歌合戦にキャンディーズを代表してソロで出る。きっとどこかで、スーちゃんも見守っているに違いない。今から舞台が楽しみだ。

 次回は作詞家・阿久悠(1937~2007)。歌謡曲から演歌、アニメソングまで、生涯に5000の詞を世に出した「歌謡界の巨人」だ。さまざまな歌謡賞が発表される12月、阿久の軌跡をたどってみる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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