【池田大作の履歴書】かつては高利貸しの営業部長だった…神格化のために行われた大袈裟な演出とは
貧困の中の虚と実
日木人の美徳の一つに「恥を知る」があることは、これまで欧米の文化人類学者が幾度となく指摘してきた。
慎み深さや奥ゆかしさという言葉でもそれは言い換えられるが、しかし、多くの日本人には、毎日毎日、自らが全権を握る機関紙に自分が勲章や名誉称号を受けたことを写真つきで大々的に報じさせ、あるいは世界中で「ガンジー・キング・イケダ展」なるものを開催させる池田氏がどう映るだろうか。少なくとも彼が、その「恥を知る」日本人の特性とは無縁な人物であることだけはお分りいただけるだろう。
いずれにせよ、他の宗教団体指導者と最も乖離しているのは、池田氏の異様なまでの勲章へのこだわりや名誉欲、そして自己顕示欲である。
それが何に起因するかを知るには、やはり彼の生い立ちから遡らねばなるまい。
池田氏が産声をあげたのは、1928年1月2日。現在の大田区大森北2丁目あたりだ。海苔業者、池田子之吉・一夫婦の第6子(五男)、本名・太作(のち大作と改名)として生を受けた。
頭脳も肉体も取り立てて誇るべき点のなかった池田少年は、極貧の少年・青年期を送っている。
創価学会側が出している『年譜・池田大作』(第三文明社刊、以下『年譜』と略)によれば、7歳頃から、父・子之吉がリューマチで寝込むようになり、この後、家業の海苔作りを手伝い始めたと記述されている。
兄たちの出征でますます貧しくなった池田少年は、午前2時に起床して、海で海苔張り、4時から新聞配達、学校が終われば、海苔はがし、夕刊配達、夜は海苔のごみとりといった生活を送る。尋常小卒業後は、後に萩中(はぎなか)国民学校と改称される高等小学校に進学、卒業後は、新潟鉄工所に勤務。強制疎開や空襲によるバラック住まいなど、池田家の貧困生活は子沢山だっただけに厳しかったようだ。
地元に残る数少ない小学校時代の同級生によると、
「昭和17年に萩中国民学校を卒業する時、池田君は4組にいました。彼はとにかく印象のない男だったね。勉強も目立たないし、身体も強くない。それに海苔漁師はみんな貧乏だった。彼の家はたしか分家で、生活は特に苦しかったはずです。後で創価学会会長があの池田だなんていう話になって、みんな驚いたものですよ」
戦争が終わっても、池田青年の生活は変わらなかった。
その貧しさは、まだ2代会長戸田城聖氏の弟子時代の池田青年が、東大の宗教学者・小口偉一氏に答えたインタビューでも窺える。
〈小学校では栄養不良で三・四回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性のもので、耳や鼻などみんな悪く、血痰がでてたんです。(略)三年目の八月に芦田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたんですが、給与もなく苦しくてしかたなかったんです。(略)信仰しなかったならば23くらいで死んだだろうといわれています(56年・『新心理学講座4宗教と信仰の心理学』)
当時、池田氏が住んでいたアパート、青葉荘の元管理人(78)が述懐する。
「池田さんは、ここに住んでいました。当時、アパートはコの字型に3棟ありましてね、その一つの東向きの4畳半に住んでましたよ。結核で一時期酷かったようです。祖母が熱にうなされる池田さんに薬を持っていったこともあるそうです。冬の寒い日、熱があるので、池田さんが窓を開けて、頭だけそこから出して寝ていたこともあったと聞きました。当時すでに宗教に入っていて、経を唱える声が大きくて注意したこともあったようです」
極貧の上、結核にまで侵されているのでは、その生活の悲惨さは想像を絶するものだっただろう。
ジャーナリストの溝口敦氏は、『池田大作ドキュメント 堕ちた庶民の神』で、
〈ふつう新興宗教に入信する動機は、一口に病・貧・争といわれるが、池田はそのすべてを体験したわけである〉
と指摘しているが、池田氏の特異な人間性は、こういったどん底の環境の中で形づくられたと思われる。
先の『年譜』は、池田氏と創価学会の出会いを以下のように記している。
〈47年(19歳) 8月14日 小学校時代の同級生に誘われ、創価学会の座談会に、「協友会」の友人二人を伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。戸田城聖と出会う〉
この時、池田氏は、戸田の人柄に感銘して突然立ち上がり、こう述べたという。
「先生が、青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます」
さらに、即興詩を披露して感謝の意を表したことになっている。
これは、学会・池田氏の「正史」だ。が、池田氏の貧困からの脱出ストーリー、学会への入信、さらに現在に至るサクセス物語には、しばしば手が入れられ、美談に仕立て上げられている。実は、この戸田氏との出会いも虚偽である。
ここに登場する三宅宅での出会いを詳細に語りうる人物がいる。その家の娘・三宅妙子さんだ。三宅さんは父親が地元・蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。そこには多くの信者が集った。池田青年は確かに妙子さんの姉が誘ってきた3人の小学校時代の同級生の一人として、座談会に現れてはいる。が、
「いま創価学会で言われているような、池田と戸田先生の伝説的な出会いはそこではありませんでした」
と妙子さんはいう。
「『人間革命』や学会の書物には、美化された出会いが描かれていますが、その日、我が家には戸田先生はいらっしゃらなかったのです。もちろん、池田は詩も詠んでいませんでしたよ。彼は我が家に来てから、10日後に入信します。私は池田にデートに誘われ、日比谷に映画を見に行ったこともあるので、当時のことはよく覚えています。あの頃の池田は、“今に見ていて下さい、僕のこれからを見て下さい”と、よく言っていました。上昇志向が非常に強い人でした」
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