要る?要らない? 菅前総理の「江戸城天守」再建論が避けてとおれない意外な難題
かつても設計図にしたがって正確な再建が可能
このモニュメンタルな天守は、江戸の町の6割が焼けた明暦3年(1657)の大火で焼失してしまう。その後、加賀(石川県)藩主、前田綱紀に天守台の再建が命じられ、それまでの伊豆産の安山岩に替わり、瀬戸内産の花崗岩を使って石垣が築き直された。
ところが、当時の将軍であった四代家綱の叔父にあたる初代会津藩主の保科正之が、天守について「実は軍用には益なく唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」、すなわち軍用には役に立たず、ただ遠くが見えるだけのもので、人力はそんなものよりも町の復興に費やすべきだ、と提言。これが受け入れられて、以後、再建されることはなかった。
さて、今回も菅前総理の発言を受けて、この保科正之の決断を尊重すべきだという意見も出されているようだ。360年以上前に「要らない」と決めたものを、なぜ建てようとするのか、という意見である。
だが、当時の江戸幕府は天守が「要らない」と決めたわけではない。復興の優先順位を定める際、天守が後回しにされたにすぎない。だから、それ以後も六代将軍家宣と七代家継の正徳年間(1711~16)に再建案が浮上し、詳細な図面も制作されたが、財政難が理由で実現しなかった。つまり、幕府は天守の再建を積極的にやめたわけではなく、 余裕さえあれば建てたいと思っていたのである。
幸いなことに、家光が建てて明暦の大火で焼失した三代目天守は、「江府御天守図百分之一」「江戸城御本丸天守建方之図」「江戸城御本丸御天守閣外面之図」(いずれも甲良家文書)などが残り、かなり正確に復元することができる。
「日本の伝統的木造建築技術の最高到達点」は、かつての設計図にしたがった再現が可能なのだ。木造でかつての設計図どおりに再建するかぎり、それは伝統的な建築技法を後世に伝える意味でも、価値がある事業になる。「最高到達点」を形として再現し、それを後世に伝えていくことにも意味があるだろう。
現状、江戸城の認知度は非常に低い。「東京に城があるの?」と思っている人は思いのほか多く、私が「世界でも最大規模の城のひとつがある」と話すと、たいてい驚く。だが、そこに天守が建てば、東京という都市の歴史や成り立ちを内外の人が認識するようになり、その効果ははかり知れないのではないだろうか。インバウンドおよび日本人の観光への効果は、長期的視点で見るほど大きいと思われる。
名古屋城の木造天守の総事業費には約500億円が見込まれている。江戸城天守は高さでは名古屋城より高いが、建築総面積は名古屋城のほうが大きい。したがって、名古屋城と同程度で済むかもしれないし、それ以上が必要かもしれない。だが、たとえばコロナ禍に、効果がまったく疑わしい施策に数千億、あるいは兆を超える予算が注ぎ込まれたことを思えば、費用対効果は見込めると思う。「皇居を見下ろすことになるのでまずい」という意見もあるが、大手町や丸の内にあれだけ高層ビルが建ち並んでいながら、高さ60メートル未満の建物に対してそんな指摘がなされるのはナンセンスである。
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