要る?要らない? 菅前総理の「江戸城天守」再建論が避けてとおれない意外な難題
日本の伝統的木造建築技術の最高到達点
最初に江戸城天守とはどんな建築であったのか、簡単に確認しておきたい。
江戸城には計3回、五重の天守が建てられた。最初は慶長12年(1607)年に徳川家康が建てたもので、白漆喰で塗籠られ、屋根には鉛瓦が葺かれた真っ白な天守だったという。だが、二代将軍秀忠は15年後の元和8年(1622)、この天守を解体してあらたに天守を造営した。手狭になった本丸を拡張する際、天守の撤去が必要となり、広がった本丸の北端にあらたしい天守が築かれたのだ。
その15年後に、天守はふたたび建て直された。三代将軍家光の寛永14年(1637)、秀忠による天守と同じ位置に、ほぼ同じ規模で造営されている。秀忠の天守を解体し、用材は極力再利用しながら、装いをあらたにしたものと思われる。
高さが七間(14メートル弱)の天守台上に建てられたこの天守は、木造部分の高さが約44.8メートルと史上最高で、天守台をふくめた高さは58.6メートルにもおよんだ。ちなみに、世界遺産に登録され、現存するなかで最も高い姫路城天守が約32メートル。1階の面積は江戸城が姫路城の2.3倍もあった。姫路城とくらべて二回り程度大きかったのである。
壁面には耐火性能を高めるために高級な銅板が貼られ、黒い塗料が塗られ、屋根も銅瓦葺き。家康が築いた純白の天守とは対照的な黒い天守で、破風(屋根の妻側の造形)は黄金の飾り金具で飾られ、鯱も黄金に輝いていた。
高層建築である天守は、織田信長が安土城に五重の天守を築いてから急速に発展。大坂夏の陣後の慶長20年(1615)に一国一城令と武家諸法度で城郭の築造が制限されるまで、全国に無数の天守が築かれ、その建築技術は大いに進歩した。家光が建てたこの三代目の江戸城天守は、いわばその究極の発展形だった。上の階にいくにしたがって床面積が規則的に小さくなる層塔型と呼ばれる建築様式で、構造的にもきわめて合理的である。
城郭建築の権威である広島大学名誉教授の三浦正幸氏は「構造的にも天守発展の最終段階」で、「その造形の洗練された美しさで他城の天守を寄せ付けず、天守建築の最大かつ最高傑作であり、さらには世界に誇る日本の伝統的木造建築技術の最高到達点であった」と記す(『図説 近世城郭の作事 天守編』)。
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