前代未聞!「契約金以外に、土地100坪」を要求し、世間を驚かせた“ドラ1左腕”
“ミスター・ガッツポーズ”
自慢の快速球に大小2つのカーブとプロ入り後に覚えたパームボールをまじえ、NPB新人記録の23イニング連続奪三振をマーク。大沢啓二監督も「やはり並の新人じゃない」と絶賛した。また、三振をとるたびにマウンドでガッツポーズを見せる今ではおなじみのパフォーマンスも、当時のプロ野球界では元祖的存在であり、“ミスター・ガッツポーズ”の異名も定着した。
前期(当時のパ・リーグは2シーズン制)だけで10勝を挙げた木田は、オールスターにもファン投票1位で選ばれ、7月19日の第1戦では9回2死からリリーフ。王貞治(巨人)をカウント3-0から7球目の外角低めカーブで三振に打ち取り、「自分でもよく投げられたと思うほど、一番いい球でした」と会心の笑顔を見せた。同22日の第3戦では江川卓(巨人)との先発対決が実現し、ともに3回をゼロに抑えた。
後期に入っても、木田は9月初めまで8連勝(前期最終戦を含めると9連勝)と破竹の勢いを持続し、同25日の南海戦で20勝目を挙げた。
だが、後期Vを目前とし、後楽園がパ・リーグでは初の観客5万人で満員札止めになった10月7日の天王山・近鉄戦では、1対1の3回から登板も、先発にリリーフと登板過多の疲れから5点を失い、負け投手に。4対5の8回、有田修三に痛恨のソロを献上した直後、木田がマウンドに座り込んでしまった姿は、V逸の象徴的シーンとして記憶されている。
ルーキーイヤーに22勝でMVPに
とはいえ、22勝8敗4セーブ、防御率2.28と抜群の成績を残したことにより、新人王はもとより、最多勝、最優秀防御率、最高勝率と投手部門のタイトルを総なめ(225奪三振もシーズン最多)。さらにはMVPにも輝いた。優勝チーム以外からの受賞は、1963年の野村克也(南海)以来の快挙だった。
前年の“土地騒動”の際に「自分の腕で」と言い聞かせた大社オーナーも「入団時のお返しをしなければならない。新居を探しているというので、協力してあげたい」と申し出た。
これに対し、木田は12月中旬、「あまり家、土地と騒がれたくなかったから、できるだけわからないようにやったんです」とオーナーの斡旋を待つことなく、契約金の残りなどで後楽園まで車で約1時間の横浜市内に2階建て72坪の住宅を入手。「とにかく決まってほっとしました」と念願のマイホーム実現に喜びもひとしおだった。
しかし、そんな“時代の寵児”も、テレビ出演や歌手デビューなど多忙なオフを過ごした翌81年は、10勝10敗、防御率4.76と2年目のジンクスに陥り、大洋移籍後も1年目の輝きを取り戻せないまま、90年の中日を最後に現役引退。活躍期間こそ短かったが、“日本ハム・木田”の名に郷愁のようなものを感じるファンは多いはずだ。
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