岸田首相が池田大作氏弔問で政治不信深まる 「四月会」と反創価学会キャンペーンをどう説明するか
自民党の“変節”
先に亀井氏が週刊新潮の取材に「大臣が池田大作の子分になっている」と問題視していたことをご紹介したが、これは羽田内閣の顔ぶれを踏まえての発言だった。21の閣僚ポストのうち、浜四津敏子氏など6人が公明党の議員だったのだ。
94年6月に羽田内閣は総辞職。すると社会党が連立を離脱し、「自社さ」連立による村山政権が誕生した。「憲法20条を考える会」や「四月会」が自民党の政権奪取に大きな役割を果たしたのは間違いない。
亀井氏は村山政権が誕生した際も週刊新潮の取材に応じ、改めて公明党と学会を厳しく批判した(註2)。
《羽田政権では何と三分の一の大臣が池田大作の子分だったわけですが、大統領制のアメリカと違って議院内閣制の日本では最終決定権は大臣にある。言ってみれば、一宗教団体が国政を牛耳っていたようなものです》
ところが1998年の参議院議員選挙で自民党は大幅に議席を減らしてしまう。橋本龍太郎内閣は総辞職し、小渕恵三内閣が発足。政権基盤が弱体化していたことから、まず自由党と連立を組み、さらに公明党も参加した。こうして現在にまで至る「自公連立政権」が誕生したわけだ。
政治不信の元凶
「自民党は、なりふり構わず政権を取り返しました。その際、党幹部は公明党に謝罪し、反創価学会キャンペーンを終わらせてしまったのです。以来、自民党の議員が学会や公明党の政教一致問題を指摘することはなくなりました。今回の岸田首相による弔問は、長きに渡る連立政権に対する感謝の意を表したようなものです。結局、与党に返り咲くためなら、公明党と学会の政教一致問題など、どうでもよかったのです。今でも自公連立の枠組みに釈然としない想いを抱いている有権者は存在するでしょうし、実際、SNS上では自公連立を野合と批判する投稿は少なくありません。日本において政治不信が加速している元凶の1つと言えるでしょう」(同・記者)
註1:国会で公開ストップとなった「池田大作テープ」の内容(週刊新潮・1994年6月9日号)
註2:池田大作が最も恐れる内閣(週刊新潮・1994年7月7日号)