実は乗り鉄だった?信濃町の創価学会施設で“無数の鉄道模型”を発見 池田大作氏と鉄道の知られざる関係

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疑問に対する「答え」らしきものは…

 ちなみに、常楽会館は、2017年に建て替えられている。学会員から「信濃町に一緒に言ってほしい」という依頼が途絶えたこともあり、筆者は新しい常楽会館に足を運んでいない。そのため、鉄道模型がその後にどうなったのかまではわからない。

 常楽会館で目にした鉄道模型に対して、池田氏は鉄道マニアだったのか? という疑問も浮かんだ。そんなモヤモヤを抱えたが、アテンドした学会員たちが池田氏の著作をいくつか貸してくれたので目を通した。それらの著作を読み、そのモヤモヤは少しだけ解消された。なぜなら、それらの本には若き日の池田氏が広宣流布のために夜行列車で全国を駆け回っていたことが書かれていたからだ。

 もう15年以上前の話なので、貸してもらった本の書名も忘れてしまったが、それらの著作には、池田氏が乗り鉄も顔負けと思えるほど全国行脚で夜行列車を乗りこなしていたことが記述されていた。夜行列車と言っても、横臥して休息できる寝台車ばかりではない。硬い座席に身を預けながら寝ることもあった。

 夜行列車で全国を駆け回ったという記述には、池田氏を神格化するための脚色も多少はあっただろう。それでも夜行列車による全国行脚は、人並はずれた体力と精神力を持ち合わせていなければ実行できない。そして体力・精神力もさることながら、事前に鉄道ダイヤを研究して、効率よく移動するスケジュールを組み立てる高いプランニング能力も必要になる。

とくに凄いのは…

 当時は、まだ全国各地に多くの夜行列車が走っていた。だから、夜行列車に乗って移動すること自体はそれほど困難な行為ではない。池田氏の凄い点は、夜行列車から夜行列車に乗り継ぐという離れ業を平然と実行していたところにある。

 このような離れ業は、とにかく鉄道ダイヤを熟知していなければならない。池田氏が鉄道マニアだったのかは定かではないが、本人もしくは側近に鉄道ダイヤに詳しい人物がいたことになる。そして、そんな人並はずれた乗り鉄スケジュールを平然とこなした若き日の池田氏は乗り鉄を超越した乗り鉄、スーパー乗り鉄だったと言っても過言ではない。

 池田氏は95歳で没した。ここ10年ほどは、公の場に姿を見せることはなかったという。そのため、政財界では池田氏の重病説は絶えなかった。筆者は池田氏が重病だったか否かを判断できる立場にない、しかし、高齢なので無理がきく健康状態ではなかったことは推察できる。当然、空白の10年で鉄道を利用することはなかっただろう。

 また、若き日の池田氏は鉄道を華麗に乗りこなしたが、創価学会内で神格化されるにしたがって周囲からの目線も増え、立場的にも乗り鉄をしなくなっていった(できなくなっていった)ことは想像に難くない。池田氏の経歴から逆算すると、国鉄が分割民営化された1987年前後には鉄道から遠ざかっていたはずだ。

 創価学会が池田氏の鉄道趣味について公式的に触れたことはない。しかし、常楽会館で見た鉄道模型は明らかにコレクターの域に達していた。池田氏は乗り鉄ができない鬱憤を各国から贈られてくる鉄道模型で晴らしていた、のかもしれない。

小川裕夫/フリーランスライター

デイリー新潮編集部

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