【飯島愛・波乱万丈の人生】亡くなる2年前から痩せ始め、直前には「裏切られた」…何が彼女を孤独死に追い込んだのか

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「年だから、寒さが身にこたえる」

 セクシー路線で売り出した飯島が文化人としての地位を獲得したのは、やはりセンセーショナルな話題を呼んだ自伝を出版し、170万部のベストセラーになってからである。劇的な環境の変化は、本人にどんな影響を及ぼしたのだろうか。

 気になるのは、亡くなる2年前の06年秋ごろから病的にやせ始めたことだ。

《婆―さん、みたいで、貧そだよ。私ね、整形しているんだけど、痩せて……。それにシミや吹き出物が酷い》

 そんなこともブログに書いていた。

 体を動かすこと自体が億劫だったのだろうか。そもそも、動かす体力もなかったのだろうか。わずか50メートルの距離でも、自分専用のタクシーに乗っての移動。番組終了後も、以前ならスタッフとわいわいやっていたが、すぐに帰宅するようになったそうである。

「年だから、寒さが身にこたえる」と周囲に話していたという。まだ30代なのに……。

 ここで飯島の生い立ちを自伝をもとに簡単に振り返ろう。

 1972年、東京都江東区生まれ。父親は亀戸の会社経営者だったという。3人きょうだいの「お姉ちゃん」。両親とも躾には厳しく、小学校のころの成績は良かったという。

 とても思いやりのある子で、運動会での障害物競走のときには、トップを走っていたが、最後のハシゴくぐりで他の子たちを先にくぐらせ、自分は最後にゴールした。父親からは「あれは駄目だろう」と厳しく注意されたそうである。

 中学に入学してからも成績は学年で常に上位に入っていたが、精神的な支えでもあった祖父が中1年のころに亡くなったことがきっかけで、歯車が狂う。

 両親からの期待やプレッシャーに耐え切れなくなり、不良仲間と毎晩ディスコなどに出かけるように。さらには、遊ぶ金ほしさで万引きやカツアゲを繰り返す日々。高校には進学したが、すぐに中退。そのころはもう家出状態のまま、自宅には帰らず、彼氏と同棲生活も始めた。

 六本木でホステスとして働いていたときは、都内に広いワンルーム・マンションを借りた。家賃は15万円くらいだっただろうか。カネは街で知りあった若い「自称医者」に借りたという。いくらでもお金を持っているらしい彼は、アルマーニ、ロレックス、ブルガリなど高級ブランドを身につけ、「肩からのショルダー電話をいつも自慢気に使いこなしていた」。たしかに、当時の携帯は、まだ戦場無線機くらいの大きさだった。

 ホステス時代にスカウトされ、92年、セクシー女優としてデビューした。だが、撮影現場での評判は悪かった。遅刻は日常茶飯事。台本もまともに読んでおらず、何よりも芝居をしてくれなかった。飯島にすれば「こんなの芝居なんかやらなくていいじゃん。せっせとカメラを回してよ」という思いだったに違いない。

 だが、その愛くるしい顔とセクシーな姿態にテレビ局が注目。深夜のお色気番組「ギルガメッシュないと」(テレビ東京)のレギュラーとして、大胆なTバックスタイルが人気を呼び、「愛ちゃん」は社会現象にもなった。

 彼女が言うところの「おミズの花道」は六本木から始まるのだが、その華やかな経歴からすれば、芸能界にいつまでもしがみつくことはできたはずだ。だが、甘くておいしい汁を吸うことはできなかった。何よりも「格好悪い」と思ったのだろう。

 しかし、売れっ子だった時代に比べ、明らかに顔から精気がなくなっていた。事業がらみの金銭トラブルに巻き込まれたのだろうか。事業に失敗したのだろうか。恋人と別れたのだろうか。亡くなる直前の飯島は「裏切られた」という言葉をよく使っていたという。「一人じゃ生きていけない」ともブログには書かれていた。

 何が彼女を孤独死に追い込んだのか。「もう15年前のこと。そっとしておいて」。飯島のそんなつぶやきが聞こえてくるようである。

 次回は元キャンディーズのメンバーで女優・田中好子(1956~2011)。愛称「スーちゃん」。2011年4月。突然の悲報に日本中が揺れた。55歳という若すぎる死。一体何があったのか。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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