記者泣かせ…プロレスの話をしない「長州力」秘話 仇敵・藤波辰爾との名勝負で今も語り継がれる名言

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名勝負数え歌

 長州のブレイク時に話を戻す。

 藤波辰爾への反乱騒動は、1982年10月8日、後楽園ホールでの6人タッグマッチで起きた。猪木、藤波、そしてメキシコから帰国したばかりの長州がトリオを組んでアブドーラ・ザ・ブッチャー組と対戦したが、藤波のタッチを長州が拒否し、藤波が激高。対戦相手そっちのけで仲間割れとなり、試合後は2人で大乱闘となった。これがプロレス史に残る、藤波vs長州の抗争の幕開けだった。

 藤波に反旗を翻したのは、猪木による入れ知恵だったというのは、今では半ば定説となっている。筆者自身、藤波へのインタビューでこれを問うと、「猪木さんの差し金でしょ?(笑)」と答えている。また、10年以上前になるが、猪木への取材で、さりげなく聞いてみたこともある。答えは今思い返しても、振るっていた。

「大事なのは、誰が考えたのかじゃなくて、長州がその流れを、自分で上手く活かしたこと」

 長州らしさは、この日から発揮された。試合後のマイクやコメントでは、「藤波! 俺とお前と、どこが違うっていうんだ!?」「(俺の反乱を)国際軍と一緒にしないでよね」と発言。確かにくすぶってはいたし、誰に負けているわけでもないという、己の実力を信じるが故の言葉だった。

 ところが翌日から長州は、「色々考えたい」と試合を欠場してしまった。「来週はどうなるだろう?」と気になるファンや「ワールドプロレスリング」の視聴者をやきもきさせ、逆にその存在感が増して行ったのである。長州は「自分の試合が始まるまでは、絶対に観客の前に姿を見せない」という信条を持っていたが、それにも通じる渇望感を煽る彼なりのやり方だった。

 そして翌週に登場し、いきなり藤波とのシングル戦が放映された。この試合で長州はかつてハンセンに何度もやられたラリアットを炸裂させ、以降も、雑誌などで「俺は藤波のかませ犬じゃない」と発言。すると藤波も、長州の得意技を逆にトレース。「掟破りの逆サソリ(固め)」を仕掛けたのだ。

 藤波と長州の名勝負といえば、1983年の4月3日の一騎打ちだろう。実況を担当した古舘伊知郎アナは、この日初めて「ひねりを加えた垂直落下式バックドロップ!」と長州の技を表現するなど、いつも以上に実況にも気合いが入っていた。最後は長州がラリアットで押し倒すように藤波に初めてのフォール勝ちをした。そして試合後に、

「俺にだって一生に一度、いいことがあってもいいだろう?」

 という名言を遺した。今も語り継がれる一戦だが、筆者にはこの時のテレビ放送での試合前の模様が今も記憶に残る。長州は、控え室で女性アナのインタビューを受け、

「撮るのやめて。……やめろって! 試合前の男がわかんねーのか、お前!」

 と激怒。さらに会場前で「どっちが勝つと思う?」とマイクを向けられ、「藤波―!」と無邪気に答える子供たちのショットの次に映し出されたのは、「長州に勝って欲しい……」と切実に答えるスーツ姿の男性だった。

「努力しても努力しても、うだつの上がらない全国のサラリーマンに、希望と勇気を与えた」

 この頃のスポーツ紙や専門誌に、判で押したように載っていた、長州人気の要因を説いた言葉である。

「お前のことは絶対に俺たちが守る」

 1990年代、長州は、新日本プロレスの現場監督として、団体を統べる立場となった。92年10月、険悪な仲にあった団体、UWFインターナショナルの代理人のルー・テーズがアポ無しで新日事務所を訪れ、当時『G1 CLIMAX』王者だった蝶野正洋との一戦を要求した。

 翌月、UWFインターの要人が再度事務所を訪れ、会談を持ったが、新日本は、現金3000万円の支払いと、蝶野への挑戦権をかけた、巌流島での無観客でのバトルロイヤル(新日本からはマサ斎藤、橋本真也、佐々木健介が参加)を条件として出した。実はこの時、蝶野が別件で新日事務所を訪れていた。しかも首を負傷していた。だが長州は「絶対にここから出るな!」と別の控え室に蝶野を隔離したという。もっとも蝶野によると、

「心配するな。お前のことは絶対に俺たちが守るから」

 と、長州は語ったという。

 2000年.1人の若者に、新日本プロレスから契約解除が通達された。名前は新島英一郎。棚橋弘至や柴田勝頼の同期で、有望株だったが、度重なる怪我に泣かされ、ついにデビューはできなかった。選手としての契約が解かれることになり、試合前の会場で、長州と同期たちのリング上での練習をボーッと眺めていた時、長州の怒号が飛んだ。

「おい、新島!」

「はい!?」

「リングに上がれ」

「……!?」

「一緒に練習しよう」

 もう選手としてはリングには上がれないはずの新島に、リング上でスパーリングを付ける長州。それは、自らも数々の苦汁を嘗めさせられ、日陰者としての寂しさを知るからこそ見せた厚情ではなかったか(新島はその後、新日本プロレスのトレーナーとして2016年まで勤務)。

 1990年、馳浩が試合後、心臓が一時停止する瀕死状態になった際、「死ぬな!」と号泣した長州。2000年、元から不安視されていた脳からの出血で急逝した福田雅一の遺影を抱いて花道を入場したこともある。

 世紀は変わり、すっかりプロレスも多様化した2018年、自身のプロデュース興行を行う際、長州はこう語った。

「今の時代、プロレスラーという言葉を使いたくない。“プロのレスラー”として、やるべきことをやって、リングに上がって欲しいんですよね。そんなにリングの中というのは、楽ではない。甘く見ないで」

 今年7月、あるソファー専門店で、長州は一日店長を務めた。抽選で5人に、リキ・ラリアットが見舞われるという催しがあった。受け手は同店のソファーを防御用に持ち、更に倒れた時のために受け身用のソファーも用意される万全の構えだった。しかし、長州が見舞ったのは、5発とも、ただ腕を伸ばして、チョコンと触れただけのものだった。囲み取材で、記者に聞かれた。

「今日のラリアットは、何割くらいの力でやりましたか?」

 長州は答えた。

「マジで聞いてんの? そういうのはやめろ」

 プロレスの話をしたがらない長州力。

「やったことのないお前たちに、プロレスの本当の厳しさなんて、わかるわけがないだろう? それをわかって欲しい」

 そう言いたかったのだと、今では思っている。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。近著に「アントニオ猪木」(新潮新書)、「永遠の闘魂」(スタンダーズ)、「アントニオ猪木全試合パーフェクトデータブック」(宝島社)など。11月25日には10ヵ月ぶりの新刊「プロレスラー夜明け前」を上梓予定。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。

デイリー新潮編集部

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