記者泣かせ…プロレスの話をしない「長州力」秘話 仇敵・藤波辰爾との名勝負で今も語り継がれる名言
長州力の名付け親は、あの人
“居酒屋でお開きとなり、店員に「腰、上げよっか」と言ったら、聞き間違えて「串揚げが4本」出て来た――”
【写真を見る】若獅子時代の貴重な姿と、伝説の「コラコラ問答」シーンなど
長州力の個性的な滑舌を示すエピソードである。
今も絶大な人気を誇る長州力。他にも「携帯の電池を頼まれたのかと思って買って来たら、ベータカロチン入り飲料の間違いだった」との元付け人、真壁刀義の述懐など、この手の逸話には枚挙に暇がない。しかし、取材する側としては、それ以上に困ることがあった。
とにかく話をしないのである。中でもプロレスの話に関してはご法度もいいところで、ライターが取材を申し込むと、まず「プロレスの話なら、しないからな」と釘を刺される。筆者もそのご多分に漏れず、結局、あるお笑いタレントとの対談で1冊仕上げたことがあった。
実は彼、新日本プロレスに入団したのは1973年12月なので、今年はプロ入り50周年のメモリアル・イヤーとなる。1982年、メキシコ遠征から帰国直後、藤波辰爾に「俺はお前のかませ犬じゃない!」と反旗を翻し、レスラーとして大ブレイクしたのはご承知の通り。ところで、彼の「プロレス話嫌い」は何故なのか。長州の人間性を示す秘話をもとに振り返りたい。
そもそものリングネームは本名の吉田光雄だったが、デビューして8か月後の1975年4月、公募で長州力と決められた。故郷が山口県であることから、古来の藩名である“長州”がイメージされ、実際、応募して来た中には、「長州太郎」や、地元では有名な観光地をそのまま書いた「太崋山」なんてものもあったという。彼はその時点で、「プロレス、辞めようと思った」「田舎に帰ろうと思った」という。
因みに、“力”は、日本プロレスの始祖、力道山から。実際はこの名前、結局、公募からではなく、猪木が付けたものだとか。名字に「長州」、名前に「力」を用いた応募は多かったが、この2つを合体させたものは1つもなかったそうだ。
悪くないリングネームだと、傍から見ると思うのだが、長州本人が言うには、「(アントニオ猪木、ジャイアント馬場などの)横文字が入ったような名前にしてほしかった」(「アサヒ芸能」2023年7月13日号)。リングネーム変更後、最初に行われた試合後では、こう語っている。「名前は、“永源ジュニア”とかの方が良かった」(1975年4月22日。永源(遥)は先輩レスラー)。
メキシコ遠征の真相
レスラーとして、ミュンヘン五輪アマレス代表という実績を持ちながら、入団後は鳴かず飛ばず。頑丈な体を見込まれ、スタン・ハンセンとよく当てられ、頻繁にラリアットの餌食になっていた。冒頭で触れた、藤波との戦いでブレイクする直前、メキシコ遠征に行っていたため、この時期が、“反逆の萌芽期”と言われる。
当時は1982年だから、初代タイガーマスクの人気や、国際プロレスという母体を失くし、猪木に牙を剥いたはぐれ国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)との争闘もあり、日本全体がプロレス・ブームに沸いていた時期である。そんな折に海外に出されるのは、「必要ない」と言われたのも同然だった。
インタビューなどでも、この時期に関する質問が少なくなかったが、長州は1度だけ、メキシコ遠征の理由について語ったことがある。それは、1986年11月15日、関西学院大学における講演会でのことだった。
学生の司会者「なぜ、メキシコ行きを決意したのですか?」
長州「ああ、(手をハサミの形にし、主に最前列にいたプロレス・マスコミに)切っておいてくれよ。……車の免許取りに行ったんだよ。30分くらいで取れる」
正確に言えば、免許は日本のように学科や実技試験の類いを一切することなく、発行所に並び、お金を出せば取れる(国際免許証ということになるが、日本における切り替えも可能)からメキシコに行ったというのだ。
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