松田聖子「裸足の季節」誕生直前の秘話 亡くなった作詞家・三浦徳子さんは他の仕事を断ってまで

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三浦徳子さんの死去

 11月14日、作詞家の三浦徳子(よしこ)さんの訃報が一斉に伝えられた。享年75。

 日本のポップミュージックシーンに遺した足跡は巨大と言っても過言ではない。

「キャッツアイ」(杏里)、「青い珊瑚礁」(松田聖子)、「パープルタウン」(八神純子)、「嵐の素顔」(工藤静香)、「君に薔薇薔薇…という感じ」(田原俊彦)、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(沢田研二)、「モニカ」(吉川晃司)等々。代表曲を並べてみれば、一定年齢以上の人ならタイトルを見ただけでサビのフレーズとメロディがよみがえるヒット曲ぞろいだ。

 それぞれの曲に、それぞれの物語があるだろうが、ここでは松田聖子の記念すべきデビュー曲「裸足の季節」の誕生ストーリーをご紹介してみたい。

 松田聖子を見いだした音楽プロデューサー、若松宗雄氏の著書『松田聖子の誕生』には、のちの大歌手のデビュー前夜のドラマが克明に描かれている。

 そこに三浦さんも重要な存在として登場するのは言うまでもない。三浦さんもまたデビュー前の松田聖子の才能に可能性を感じた一人だったのだ(以下、『松田聖子の誕生』をもとに再構成しました)。

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 1980年の2月はとてつもなく慌ただしかった。松田聖子という壮大なプロジェクトが、ついに動き始めたからだ。この時期になるとサンミュージックのスタッフも積極的に動き始め、CBS・ソニーの販売促進部にも熱心に足を運ぶようになる。大手芸能事務所であるサンミュージックが大プッシュすれば、レコード会社の販売促進部のスタッフも、熱を入れてプロモーションしないわけにはいかない。つい先日まで、デビューするかどうかもままならなかった話がいきなり逆転。全てが松田聖子のデビュー日に向けて動き始めたのである。

 嬉しかった。私が2年近く前に彼女の歌声を社内のスタッフに聴かせたときのことなど、もはや誰も覚えていなかった。私は、平静を装いながらも心の中で大きくガッツポーズを作っていた。そして同時にこのときから私は、ファンの方の心に届くような素晴らしい楽曲を仕上げていくことを心に誓い、全ての力を楽曲制作に注ぎ始める。

実は歌詞にはない「裸足の季節」というフレーズ

 私がプロデュースした松田聖子の曲のタイトルは、ほとんど私が付けたものだ。デビュー曲の『裸足の季節』というタイトルも、もちろん私がひらめいて決めたものである。歌詞に「裸足の季節」という言葉は特に登場していなかったが、松田聖子のフレッシュな魅力を表現するキーワードとして、不意に浮かんだ言葉であった。これまで数々の楽曲のタイトルを付けてきたが、個人的にも最も秀逸なネーミングの一つだと自負している。聖子自身の爽やかさ、歌詞の世界との親和性、何より覚えやすい普通の言葉の組み合わせなのに、全く新しいイメージを想起させる言葉であったこと。そして聖子自身も、まさにいま裸足で走り続けているといった、そんな意味合いも込められていた。

筒美京平氏に断られた

 デビュー曲を書いてもらうにあたって、当初私は作曲家の筒美京平氏に連絡を取っている。言わずと知れた60~80年代に数々のヒット曲を世に送り出したヒットメーカーである。ところがすぐに「多忙により当分は順番待ちである」との返事が届く。正直に言えば、何か見えない力が働いていたのかもしれないと勘繰ってしまうほど、あっさり断られてしまっているのだ。しかし、いまとなってはそれで良かったと思っている。そこから急に私の思考回路がクリアになり、プロデューサーとして迷いを抱えていた心が、一気に晴れていったからだ。

 これら一連の出来事は、全て松田聖子という歌手が持っていた強運だとも言える。そもそも70年代のアイドルのほとんどが筒美氏からの曲提供を受けていた。しかし、だとしたら、松田聖子の作家陣はもっと冒険心を持って新しい才能を開拓していくべきだったのだ。私はすぐに自分の考えを改めた。いつもの前向きな切り替えだ。A案がダメならB案へ、過去は引き摺らないのが私の主義である。

 すると、その頃私が好きだったヒット曲が自然に頭に浮かんできた。サーカスの『アメリカン・フィーリング』。明るくて洋楽的、西海岸のポップミュージックを連想させる爽快なメロディ。聖子の明るい伸びやかな声に似合うのは、南太平洋の青空や爽やかな風が思い浮かぶ、リゾート感溢れる旋律に違いない。

 このときついに私の「直感力」にスイッチが入り、フルに働き始めるのである。

小田裕一郎さんの自宅兼オフィスへ

 作曲家の小田裕一郎さんのセンスの奥深さを『アメリカン・フィーリング』一曲から感じ取った私は、すぐさま連絡を取り、数日後にはもう小田さんの自宅兼オフィスにおじゃましていた。少し話してみると、小田さんは非常にレスポンスが早くアイデアにあふれる方で、ギタリストとしても活躍されている理由がよくわかった。ミュージシャンはテクニックだけでなく、人柄や勘どころが良い方でないと務まらない。さらに聖子の歌を吹き込んだテープを聴かせると、その場でオファーを快諾。「非常に面白い。ぜひやらせてほしい」と即答でOKしてくださったのだ。

 小田さんは、予想通りアメリカンポップスにも非常に精通されている方で、私が「聖子の声は、明るい南太平洋の青空を連想させるような歌声なんです」と熱弁を振るうと、そこにも強く共感してくださった。こうして完成したのが『裸足の季節』だったのである。

 アレンジャーの信田かずおさんも、このとき小田さんに紹介していただいている。私にとって、小田さんも信田さんも初めてお仕事をする方だったが、非常に洋楽的なセンスの持ち主で、聖子の明るい声にフィットする新しいサウンドを必ず作ってくださるに違いないと最初から成功の予感がしていた。私はついに始まったデビュー曲の構想に胸が高鳴り、プロデューサーとしての醍醐味を再び思い出し始めていた。ワクワクとして血がたぎるあの感じ。好きなこと、楽しいことの先に未来はある。

聖子のポテンシャルを面白がった三浦さん

 作詞についてはサンミュージックのスタッフの推薦もあり、三浦徳子さんにお願いすることにした。三浦さんも当時、最も脂が乗っていた作詞家のお一人。独特の視点で、聖子のリゾート感溢れる爽やかな世界を構築し、デビュー当時の躍進を大きく後押ししてくださった。三浦さんもまた聖子の秘めたポテンシャルをとても面白がっていた方で、のちに聞いた話だが、当時同時期に別の新人歌手のプロジェクトに参加していたのを断って、聖子一本にかけてくださったそうだ。そこまで聖子の声の魅力に惚れ込んでいただけたのも嬉しいことだった。

 そして幸運なことにこのタイミングで資生堂のCMタイアップの話が舞い込む。「エクボ」という洗顔フォームのCMキャラクターとキャンペーンソングを歌う歌手を探していると言うではないか。すぐさま私はその話を受けて、歌詞に「エクボ」というキーワードを入れてデビュー曲の調整に取りかかった。こうして松田聖子の記念すべきファーストシングル『裸足の季節』の完成の日が、刻々と近づいていったのである。

CM撮影前の「エクボ」事件

「エクボ」のイメージガール・オーディションは、約2000人が受けたという。聖子もその中の一人だった。しかし、ここで事件が起きる。ほぼ最終決定という段階でのテスト撮影中に、聖子にエクボが出来ないことがわかるのだ。何度か撮影をしたが、やはりエクボが見当たらない。そのため残念ながらCM出演の話は、この時点で一度流れてしまうのである。

 しかしここでも奇跡的なリカバリーが起きた。落胆したのも束の間、博報堂のプロデューサーの方が資生堂に大プッシュしてくださり、なんとか歌だけは使われることが決まるのだ。陰でサンミュージックのスタッフも、クライアントに何度も足を運んでくださっていたと聞いた。事務所もいよいよ本腰を入れて聖子の売り出しを始めてくれていたのだ。運が転がり込んできたというよりは、聖子自身が運命を引き寄せた形だった。

ガラスブースの向こうの涙

 明るさと素直さ、何より一生懸命な気持ちが松田聖子の魅力だ。フレッシュな笑顔には誰もが引き寄せられる。それを聖子は歌手として自然と体現していた。ご両親から受け継いだ気質も大きかったと思う。考えてみると、聖子の母親はどんなときも明るく大きく構えていた。あれだけ頑固だった父親も話してみると飄々として細かいことを気にしない明るい性格であった。何度もご両親との交渉を続けていた私だったが、だからこそわかる二人からのギフトをここでも感じずにはいられなかった。

『裸足の季節』のレコーディングは2月末に行われた。聖子の初めての歌入れである。スタジオには資生堂や広告代理店の方々が集まってくださり、意外にも賑やかなスタートとなった。芸能人は寂しいよりは賑やかな方がいい。何より「華」が大事な仕事だ。松田聖子はスターになるべくして、いまこのスタジオにいる。船出にふさわしいレコーディングとなり、私も成功への確信をさらに強めていた。

 そしてついにレコーディング開始。しかし次の瞬間ガラスブースの向こうに目をやると、マイクの脇でこちらに向かってぺこりと頭を下げた聖子の頬に、涙が流れ落ちていくのがわかった。

『瑠璃色の地球』の一節ではないが、まさに泣き顔が微笑みに変わる瞬間。私がこれまでの人生で見たなかでも、最も忘れがたい嬉し涙であった。

 苦節何年という言葉があるが、聖子がミスセブンティーンのオーディションを受けてから約2年の月日が過ぎていた。感極まるものがあったに違いない。ただ現実的な話をするなら、涙は喉を締め付けるのでレコーディングでは禁物。落ち着くまで少し時間を取ると、その後聖子は笑顔で『裸足の季節』を一気に歌い切っていた。会心の出来だったと思う。

 ちなみに、いくつかあったテイクの中で、少しつたない歌い方のものを私が選んだという話は、都市伝説ではなく本当のことである。これは、歌は何度も歌い込んでバランスを考えた歌唱より、荒削りでも、風が吹き抜けるようにどこかさりげない歌い方のほうが人の心にスッと入っていくというのが私の信条だったからだ。この考えはその後も終始一貫しており、私がプロデュースしている間は、あえて曲を早めに聖子に渡すことはなくその場で覚えてもらうことを心がけていた。それはデビュー曲から貫かれていたのである。

 もう一つ、『裸足の季節』について忘れ難いのは、当時から多くのアーティストに支持されていたカリスマ・レコーディングエンジニアの内沼映二さんの言葉だった。普段は寡黙な内沼さんが、ミックスダウンを終えて仕上げた曲をわざわざプレイバックして、「この子、売れそうだね」とポツリと言ってくださったのである。

 誰より多くのアーティストの生の声を聴いている内沼さんがそう言ってくださったことで、背中をポンと押された気がして、前に進む勇気をいただいた。その時点では、まだたくさんいる新人の一人にすぎなかった松田聖子を、業界のど真ん中にいる方が褒めてくださったのだ。実に嬉しかった。

記念すべきデビュー日

 1980年4月1日、ついに待望の松田聖子デビューの日が訪れる。資生堂のCMも解禁され、テレビからは毎日のように『裸足の季節』がお茶の間に流れ始めていた。残念ながらCMに聖子自身は登場していない。しかしここである現象が起き始める。「あの曲は誰が歌っているのか?」という問い合わせが資生堂に殺到し始めるのだ。あわてて「歌 松田聖子」というクレジットが入るとレコードの売り上げがジワジワと伸び、続いて歌番組の話も次々に舞い込み始める。

 この時期の印象的な思い出としては、よく聖子と一緒に焼き肉を食べに行ったことがある。デビューしたとはいえ、聖子もまだそんなに忙しくはなかった。歌手としてのモチベーションを下げないためにも、私は定期的に聖子に会うことにしていたのだ。その頃行きつけの美味い店があって、夕方、聖子とよく新宿で待ち合わせた。私は市ヶ谷のCBS・ソニーからそこに駆けつけるのだが、聖子はこの頃もまだ一人で電車に乗っていた。

 小田急線でサンミュージックの寮がある成城から出てきては、伊勢丹の近くにあった焼肉店で待ち合わせるのが、いつものコースだったのである。聖子は当初からスリムだったが、健康的で明るく元気。いつも美味しそうに食事をしていたのをよく覚えている。

 思えばあれが、聖子が普通に街を歩くことができた最後の時間だった。

『松田聖子の誕生』から一部抜粋、再構成。

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