阪神・岡田監督も現役時代に経験した“屈辱” 「戦力外通告」を受けるも、他球団で見事に復活した“スター列伝”

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「沙知代という女は世界に一人しかいない」

 一方、監督を解任されたあと、一兵卒として他球団で45歳まで現役を続けたのが、野村克也である。

 南海プレーイングマネージャー時代の1977年9月28日、沙知代夫人(当時は未入籍)が選手起用に口を出すなど、「公私混同によるチームへの悪影響」を理由に電撃解任。後援会長から「野球を取るか、女を取るか」と最後通告を受けた野村が「女を取ります。仕事はいくらでもあるが、沙知代という女は世界に一人しかいない」と答えた話も知られている。

 解任直後は引退も考えた野村だったが、ロッテ・金田正一監督が救いの手を差し伸べ、移籍が決まると、流行語にもなった「生涯一捕手」を座右の銘に25年目の現役生活に入った。

 だが、ロッテでは南海時代に自身の控えだった高橋博士に正捕手の座を奪われるという皮肉なめぐり合わせに泣き、64試合出場の打率.226、3本塁打、12打点に終わった。

 78年、ロッテは3年ぶりのBクラスに転落し、金田監督が辞任すると、次期監督候補に野村が浮上したが、心ならずも辞任に追い込まれた金田監督の後釜に座ることを良しとせず、就任要請を固辞して退団した。

 そして、79年から2年間プレーした西武でも、控え選手の悲哀がついて回る。チームがV争いを演じていた80年9月28日の阪急戦、1点を追う8回1死満塁で野村に打席が回ってきたが、同点犠飛を打つ自信があったのに代打を送られてしまう。

 その不満から「打つなよ」と代打が凡打することを願い、結果は併殺打。「ざまあ見ろ!」と溜飲を下げたが、試合後、「チームの負けを願ったら、おしまいだ」と反省し、ついに現役引退を決意した。

 しかし、これらの現役晩年の苦い経験が、力の衰えたベテランを活かす大きなヒントになり、1990年代のヤクルト監督時代にリーグ優勝4回、日本一3回の黄金時代を築くことになる。

35歳で戦力外通告

 1度は引退を覚悟したにもかかわらず、幸運な形で移籍先が決まり、40歳にしてセ・パ両リーグ本塁打王の快挙を達成したのが、山崎武司である。

 中日時代の1996年に本塁打王を獲得した山崎は、2002年オフ、山田久志監督との野球観の違いから、自ら球団にトレードを直訴し、平井正史との交換トレードでオリックスへ。移籍1年目は、通算200号など22本塁打を記録した。

 だが、翌04年は、同年就任した伊原春樹監督に地元・名古屋で行われた西武戦で先発を外された一件をめぐって対立。その後は1軍と2軍を行ったり来たりしながらシーズンを終え、35歳で戦力外通告を受けた。「こんな問題児を受け入れてくれる球団なんかあるわけない」と一時は野球から離れることも考えたが、同年オフ、球界再編成によって、新球団・楽天が誕生したことが追い風となる。初代監督・田尾安志が「スイングを直せば打てる」と山崎を新球団の主砲候補としてラブコールを贈ってきたのだ。

 初めは「野球はもう結構です」と断った山崎だったが、周囲の説得で現役続行を決意し、移籍1年目に25本塁打と復活。“自ら考える野球”を伝授してくれた野村克也監督時代の09年には、43本塁打で史上3人目のセ・パ両リーグ本塁打王に輝いた。

 さらに2度目の戦力外通告を受けたあとも、12年から古巣・中日に復帰し、44歳まで現役続行。「27年間も現役生活ができたのは誇り」と完全燃焼してユニホームを脱いだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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