【松田優作の生き方】強さの中に「憂い」を秘め、心のどこかに虚無を宿して…俳優というより役者というほうがふさわしい理由

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一気に駆け抜けた人生

 そんな役者・松田優作の半生を振り返る。

 1949年、山口県下関市出身。3人兄弟の末っ子だった。県立下関第一高校(現・県立下関中等教育学校)2年のとき、米国の親族を頼ってカリフォルニア州の学校に留学。翌年に帰国して俳優の道を志す。

 転入した私立豊南高校夜間部普通科を卒業後、関東学院大学文学部に入学。在学中の1972年4月、文学座の研究生となり、73年、映画「狼の紋章」に出演。同年、あの伝説のドラマ「太陽にほえろ!」でジーパンをはいた若手刑事役を演じ、一躍、人気スターに。その後、映画「蘇える金狼」(79年)、「野獣死すべし」(80年)にも出演し、アクション路線を歩む。83年に森田芳光監督(1950~2011)の映画「家族ゲーム」で風変わりな家庭教師役を演じ、新境地を開いた。

 森田監督とのコンビでは、85年、夏目漱石・原作の映画「それから」に主演、藤谷美和子(60)との現代人コンビで明治の時代を描き、話題を集めた。「家族ゲーム」ではキネマ旬報主演男優賞や日本アカデミー優秀主演男優賞なども受賞した。

 でも、酒場でのトラブルやいざこざは絶えず、75年、ロケ先の鹿児島市内で一般人に手を出してしまったこともあった。しばらく謹慎したが、復帰後の映画のタイトルは何と「暴力教室」(76年)。

「松田優作ってスゲエ! 全然変わっていないよ。優作、やっぱり強いなあ」

 と当時10代だった私は喜んだ。芸能人の不祥事をメディアも社会もおおらかに受け止めた時代だったといえるだろう。

 だが、無理に無理を重ねた結果だった。強健な肉体をがんが襲う。しかし、松田は最期まで妻には、事実を伝えようとはしなかった。「気苦労をかけたくないし、『ブラック・レイン』の演技にすべてを注ぎたい」という思いがあったに違いない。

 優作のそんな気持ちを察し、がんに蝕まれていることを薄々知りながらも妻の美由紀は気づかないふりをしてきたという。優作はぼうこうがんの摘出手術をする。がんを克服したかに見えたが、尿に血が混じり痛みを感じ、都内の病院で再検査を受けたところ、再発が明らかになった。かなり厳しい痛みの連続だったに違いない。だが、優作はひた隠した。家族にも周囲にも心配をかけまいと必死だったのだろう。燃焼しきって旅立ったと言ってもいいだろう。

 そんな優作の評伝を、最初の妻でノンフィクション作家の松田美智子(74)が2008年に描いた。「越境者 松田優作」(新潮社)。隠し続けた出自、役者として生きていくための苦悩、父親としての素顔を描いている。晩年には新興宗教に頼ったこともあったらしい。優作は美智子にこんなことを言っていたという。

「みんな、ちゃんとアンテナを張っていれば見えるものを、見ていないんだ。勉強しない奴は、冒険を恐れる」

 次回は、元タレントの飯島愛(1972~2008)。ベストセラーとなった自伝の出版や、テレビでの活躍などがつい最近のことのように思える。クリスマスイブに東京・渋谷の自宅で遺体で発見されて14年。さまざまな臆測を呼んだ死に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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