【高倉健さん伝説】 病気のスタッフに贈った詩とペンダント 「命あるうちに仕事を」

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「健さん」こと高倉健さんが亡くなったのは2014年11月10日である。

 俳優としての魅力はもちろん、生前の人柄をたたえる声は少なくない。

 長年、健さんの取材を重ね、ラジオ番組をもとにした『旅の途中で』(高倉健・著)のプロデュースを担当した谷充代さんは、著書『「高倉健」という生き方』(新潮新書)の中で、さまざまな秘話をつづっている。約30のエピソードから構成されている同書から、健さんのスタッフへの気遣いや仕事観がよくわかる「命あるうちに仕事を」という章をご紹介しよう。裏方に対しても人として正面から向き合い、つきあってきた姿勢には胸打たれる方も多いのではないだろうか(以下は同書より抜粋したものです)。
 
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健さんから届いた贈り物に書かれていた「言葉」

 プロデューサー、ディレクター、スタイリスト、メイクアップアーティスト、通訳など、健さんの周りにはそれぞれの分野で一流のスタッフがいる。

 ロケバス会社を経営するMさんもまた、運転技術だけでなく、スタッフへの気配りにおいてもちょっと真似ができないところがあった。

 私がMさんと初めて会ったのは2002年、『旅の途中で』の「編集合宿」の5年前、ポッカコーヒーのCM撮影のときだった。

 下田の砂浜に立った健さんが、海に向かって「高倉健、しっかりしろよぉ!」と叫ぶCMで、打ち合わせの際、スタッフは健さんの反応を心配したが、いたずら好きな本人はケロリとして、むしろ愉快そうにカメラの前に立っていた。

 ロケのため用意された宿は下田の老舗旅館だった。そこでの夕食のあいだ、Mさんは健さんの正面に座って、次から次へとテンポよく話をしていた。「鬼門の席」などものともせず1人で健さんをくつろがせてくれたおかげで、周りの人たちも気がねなく食事を楽しむことができた。ただ、「がんの手術をしたばかりで」というMさんの言葉が私の耳に入ってきた。

 それからしばらくMさんと話す機会はなかったが、前述の合宿に同行をお願いすると、電話に出たMさんの弟は、「Mは、精一杯務めさせていただきます、と言っています」と即答してくださり、私は千人力の援軍を得たような気がしたものだった。

健さんとの仕事は生きがい

 東京から下田まで、いつものように運転席の真後ろに座る健さんに、Mさんは何くれとなく話しかけていた。押し付けがましくもなく、しかもじつに心地よいタイミングで相手を退屈させない。

 驚いたのは、宿に着いてすぐ、荷物の中から真新しい木刀を取りだしたときだ。

「高倉さん、これ使ってください。今回の合宿は運動不足になると思って、友だちに作ってもらったんです」

 Mさんは予定の1週間、仕事が順調に進むようにとCDや健さんが主演した映画のDVDまで用意してくれていて、仕事の様子を見ながら、上映会をしてくれたこともあった。映画『冬の華』を観ているときには、健さんが撮影当時の思い出を懐かしそうに語ってくれた。日ごろ聞けない舞台裏の話はとても貴重なものだった。

 そのMさんの様子が気になったのは夕食どきである。いっこうに進まない箸を手に、

「私は今、みなさんのような量が食べられないので」

 というだけだった。後で知ったが、この「合宿」の直前までMさんは抗がん剤治療のため入院していたという。退院後ゆっくり静養をと考えていたが、「健さんの仕事は生き甲斐だからやらせてくれ。健さんと一緒にいると食事も旨いし元気が出るんだ」、そう家族を説得して参加していたと聞く。

 痛み止めの薬を飲んで夜を耐えることもあったらしく、「もし俺が運転できないことになったら、すぐ誰か下田によこしてくれ」と言付けしていたという。日中、何ともない様子で健さんの好きなエスプレッソを淹れてくれるMさんが、そんな容態であることに私たちはまるで気づかなかった。

 合宿も半分過ぎたころ、健さんの調子がすぐれなくなった。スギ花粉症がひどくなり、目を充血させてティッシュで鼻をおさえながら、「限界だな。今日、帰ろう」と言う。

(略)

健さんのセリフが教科書だった

 俳優やスタッフたちの移動を請け負うロケーションサービスという仕事は、Mさんの父親がトラック1台ではじめた。はじめは大映の仕事が中心だったが、やがて映画産業が斜陽になり、CM関係の仕事もするようになったという。

 中学時代はいっぱしの不良で母親を心配させてばかりいたMさんにとって、高倉健は別格の存在だった。映画の中で健さんが履いていた雪駄のニセモノをこしらえ、両切りタバコを真似て、わざわざ新品のタバコの両端をつぶして吸ったそうだ。

「男だったら一度はじめたことは最後までやりとおせ、とか、言い訳せずけじめだけはつけろ──そんな健さんのセリフがいつの間にか自分にとっての教科書になり、やんちゃもばからしい歳になると、自然に親父の仕事を手伝うようになっていました」

 がんになったときも、がんなんか治してみせる、生きていればまた健さんの仕事ができる、そう考えることで手術にも前向きになれたという。

「(ポッカコーヒーのCM撮影の)あの晩、正直にがんのことを話しました。すると健さんは、『これからは“気”で生きていけばいい』と言ってくださいました」

 がんは再発のないまましばらく時が過ぎた。しかし、手術から5年目にがんが肺に転移していることがわかった。

「ちょうどそのときも健さんの仕事が入っていて、直接ご本人に『今度の撮影にはご一緒できなくなりました』と話しました。数日後、健さんから贈りものが届きました。銀製のペンダントで、そこに漢詩が書かれていたんです」

冷に耐え 苦に耐え 煩に耐え 閑に耐え
激せず 騒がず 競わず 従わず
もって大事をなすべし

「これをいただいた瞬間、『これで思い残すことはない、がんと闘うのはもうよそう』、そう思いました。思いがけずいただいた言葉で『あとどのくらいかわからない命、この言葉通り生きていけばいい』。そう思った途端、気分が軽くなったのです」

「合宿」は家族から反対されたが、自分には自信があったとMさんは言った。

「実際、不思議でした。夜になると痛み止めも効かないのに、健さんとご一緒している昼間は、本当に痛みが止まる。元気も出る。固形物はすべて吐き出していたのに、みなさんの量の半分も食べられた。奇跡だと思ったぐらいです。あのとき健さんは自分の花粉症ではなく、僕の身体を察したのでしょう。だから合宿を中断して、帰りも眠らず、ずっと僕に語りかけてくれたんでしょう」

命あるうちに仕事を

 Mさんはこのあと合宿中の出来事を懐かしそうにふりかえった。

「山の頂にある露天風呂で湯気がもうもうと立ち上り、その向こうに健さんがいる。ああ、この人は唐獅子牡丹の人なんだ。なのに何で墨を打ってねえのかなぁ、と思いました。合宿の間、一緒に散歩もしました。そのとき健さんは『こうやって人の目を気にせずに歩けるって素晴らしいなあ』、そう仰いました。股ぐらが痒ければケツを自由にかける、それが健さんにとって最高の場所なんだろうと思います。いつでも、自由になれる場所を探している。だからいい別荘地があると聞くと、撮影現場の空き時間にそれを見に行くのが健さんの楽しみでもありました」

 Mさんは末期がんとは思えない嬉しそうな顔で言葉をつづけた。

「少年のころに映画で観たあの人は、自分にとって永遠のヒーローでした。そして実際にお仕事を一緒にさせていただいても、やっぱりそうです。嘘がない、真っ直ぐで、誰がなんと言おうと自分が決めた道を進む。しんどいときもあるのでしょうが、決して弱音を吐かず、黙っている。あるとき特注のマウスピースを見せてくれて、『つらい時は、このマウスピースをぐっと噛んで辛抱するんだ』、そう言っていました……」

 Mさんは「合宿」から半年後、2002年の夏の終わりに亡くなった。私に訃報を伝えてくれたのは健さんだった。

「M君が亡くなった。命は、いつ終わるかわからない……命あるうちに仕事をしなければいけない、今、強くそう思います」

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