天才・堀内恒夫がV9時代の日本シリーズ“奇策合戦”を明かす

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「野球は好きじゃなかった。うまくもなかった」

 堀内が野球を始めたのは、小学校4年の頃だという。

「朝早く、子どもたちが軟らかいテニスボールを竹の棒で打つ遊びの野球をやっていた。僕もその仲間に入ったんだけど、その頃、野球は好きじゃなかった。うまくもなかった」

 意外なことを言った。V9当時のチームメイト、ライバル、誰に聞いても「堀内は天才だ」「何をやらせてもすぐできる」と口をそろえる堀内が少年時代、それほどうまくなかった?

「だから中学ではサッカー部に入ったんです。9人の野球より11人のサッカーの方がレギュラーになりやすいだろうと思ってね。実際、3カ月でレギュラーになった。ところが、野球部の顧問に引っ張られて野球に戻った。すぐにショートでレギュラーになった。最初は内野手でした」

 人生はふとした偶然や運命のいたずらに左右される。堀内もそうだった。

「あの頃山梨の高校は弱かったから、甲府の球場で見た法政二高(神奈川)に憧れた。でも、見学に行った日がちょうど練習休みで。入試も受けたけど、入れなかった」

 堀内が訪ねた日、法政二高の監督が堀内の投打走を見ていれば、一も二もなく野球推薦で入学が決まりそうなものだが、縁がなかった。代わって熱心に誘ってくれたのが、自宅に近い市立甲府商の監督・菅沼八十八郎だった。いまも恩師と呼ぶ菅沼との出会いが堀内の人生の大きな糧となる。

琵琶湖にびっくり

 堀内は「高校時代、夏の甲子園には出場したが、甲子園球場ではプレーしていない」と、プロで活躍し始めた当初、話題になった。1年生の夏(1963年)、第45回の記念大会となった夏の選手権には本土復帰前の沖縄を含め各都道府県から1校ずつ(北海道は2校)、計48代表が参加した。当時、通常は30校だったから、日程を考慮して3回戦まで西宮球場を併用した。甲府商は西宮で試合をするブロックに入ったのだ。1年生ながら堀内は外野手兼投手として出場した。

「3回勝てば甲子園でやれたんだけど、2回勝った後の3回戦で、優勝した明星(大阪)に11対0で負けた。甲子園で投げられなくて悔しかったけど、それより初めて見る景色に驚いた」

 と堀内は回想する。

「生まれ育った甲府は盆地だから海がない。バスで甲子園に向かう途中、琵琶湖を見て海だと思った。湖だと聞かされてビックリした。何しろ、魚屋で売っていアジの開きも、あれがそのまま泳いでいると思っていたくらいだから。

 それに何より衝撃的だったのは、負けた後、みんなで行った宝塚劇場の華やかさだね」

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