天才・堀内恒夫がV9時代の日本シリーズ“奇策合戦”を明かす

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 50年前、巨人は9年連続日本一を達成。エースだった堀内恒夫(75)は、日本シリーズで複数の本塁打を放つなど投打で活躍した。だが、それはパ・リーグ球団が繰り出す奇策を乗り越えてのものだった――。白熱の舞台裏をスポーツライターの小林信也氏が活写する。

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 9連覇が懸かった1973年日本シリーズは、「今年こそ巨人は危ない」と案じられていた。対戦相手は南海ホークス。監督は選手兼任の野村克也。ドン・ブレーザーをヘッドコーチに迎え、データ野球では巨人にも引けを取らない。

 この年の巨人には不安材料が多かった。ペナントレース最終盤まで阪神、中日と激しく優勝を争った。10月初旬には巨人が首位にいたが、10日に阪神がトップに立つと、残り1試合まで巨人は2位に甘んじた。優勝が決まったのは22日の最終戦。甲子園球場の阪神戦を9対0で勝ち、巨人は辛うじてセ・リーグ9連覇を達成した。66勝60敗4分、勝率.524は9連覇中で最低だった。

 さらに、「天王山」といわれた対阪神2連戦の2戦目(11日)に長嶋茂雄が右手薬指を骨折。日本シリーズ出場は絶望と診断されていた。衰えが目立つ長嶋とはいえ、ONのNが欠けた打線の迫力不足は否めなかった。
 加えて、前年26勝してMVPに選ばれた絶対的エースの堀内恒夫がこの年は不調。12勝こそ稼いだが17敗。入団8年目にして初めて負け越した。防御率4.52も過去最悪。

「出る予定はなかったのに」

 堀内自身が振り返る。

「この年の日本シリーズは、本当は登板予定がなかったんです。高橋一三さん、倉田誠さんが中心でいくと」

 ところが、短期決戦が始まると、エース堀内は突然目を覚ました。

 南海のエースだった江本孟紀が言う。

「堀内は不調だと聞いていたのに、日本シリーズになったら復活した。投打とも絶好調なんだもの」

 初戦、南海は先発・江本が好投。巨人の左腕・高橋一との投げ合いを制して先勝した。続く第2戦、先発・倉田が7回裏に無死満塁のピンチを招いた。ここで痛打を浴びて逆転を許せば、2連敗の可能性が高まる。重要な局面で川上哲治監督は、不調とはいえ勝負強い堀内を投入した。

「出る予定はなかったのに、行けと言われた」(堀内)

 堀内は代打ウィリー・スミスに犠牲フライを許し、2対2の同点。なおも1死一、二塁。この場面で堀内は7番桜井輝秀を投ゴロ併殺に打ち取りピンチをしのいだ。“堀内劇場”の始まりだった。

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