【追悼】大橋純子さんがフルパワーでバラードを歌わなかった理由
73歳での死を惜しむ声が多く上がっている大橋純子さん。プロにもリスペクトされていたというシンガーとしての魅力について、かつてインタビューしたことのある音楽ライターの神舘和典氏が、当時の取材などをもとに解説する。
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プロにリスペクトされる存在
11月9日、シンガーの大橋純子さんが永眠した。享年73。食道がんで闘病を続けていたという。
大橋さんは1950年、北海道夕張市出身。1974年にアルバム「フィーリングナウ」でメジャーデビュー。1977年に大橋純子&美乃家セントラル・ステイション名義でリリースした曲「シンプル・ラブ」がヒットした。美乃家セントラル・ステイションのギタリストは後に一風堂を結成し「すみれ September Love」をヒットさせる土屋昌巳。キーボードは後に夫となる佐藤健。
1960年代から1970年代にかけてアメリカのロックシーンでは、数多くのミュージシャンが腕利きのバンドをバックにする流れがあった。ボブ・ディランとザ・バンド、キャロル・キングとザ・セクション、リンダ・ロンシュタットと後のイーグルス。
そのスタイルを日本で実現させたバンドの1つが大橋純子&美乃家セントラル・ステイションだった。ほかには、岡林信康とはっぴいえんど、吉田拓郎と愛奴(浜田省吾がドラムスを担当)、井上陽水と安全地帯(メンバーに玉置浩二など)、松任谷由実とザ・スクエア(安藤まさひろが率いていた日本を代表するフュージョンバンドの1つ)などがある。
大橋さんの魅力は声域の広さを活かしたソウルフルなヴォーカル。代表曲の「たそがれマイ・ラブ」も「シルエット・ロマンス」も圧倒的な声量があってこその名曲。プロのミュージシャンにリスペクトされるミュージシャンズ・ミュージシャンの1人だった。
ライヴでは、透き通るようなロングトーンで会場の空気を変える。そうかと思うと、抑え気味にバラードを歌う。
フルパワーを抑えた理由
インタビューでお目にかかると、メディアを通してのイメージのままのかた。ショートヘア。ナチュラル・メイク。明瞭な声で話される。とても気持ちのいい女性だった。
大橋さんは自分を“ストーリー・テラー”あるいは“画家”にたとえて話された。歌詞の主人公に自分を投影するのではなく、歌詞がつづる物語を歌によってリスナーに伝える。または、言葉、メロディ、リズムによる“音のキャンバス”を声で色づけていく。そんな思いで歌っていた。与えられた曲に対し、どのキーで歌うと、作品がどんな色になるか――常に考えてレコーディングし、ステージで歌っていた。
喉のコンディションのいいライヴの日は、だからこそ思い切り発声しないように心がけていたという。状態がいいからとフルパワーで歌うとストーリー・テラーとしての役割が果たせず、客席が白けてしまう。ライヴは、ステージと客席がつながっている“空気の輪”だという。会場のすべてがつながってこそ、そこに特別な空気が生まれる。シンガーが独りよがりになってはいけない。そんなふうに大橋さんはおっしゃっていた。
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