昭和の名大関・朝潮 朝青龍騒動で珍回答、初優勝で男泣きした真相…“愛されキャラ”のエピソードが蘇る

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「相撲なんてイヤだよ」と言っていたのに

「大ちゃん」こと朝潮太郎は、子供のころから明るい少年だった。

 高知県の港町、室戸で生まれた大ちゃんの父は、捕鯨船の船乗りだった。父が帰ってくるのは年に2回、2週間だけ。それでも寂しさを感じることなく、モリモリ鯨肉を食べた大ちゃんは、小学校6年で80キロの堂々とした体になっていた。付いたあだ名は、「大ちゃん」。

 成績がトップクラスだったこともあって、中学からは下宿して高知市内の中学校に通い始めたのだが、大きな体に目を付けられ、無理やり相撲部に誘われてしまう。

「相撲なんてイヤだよ。なんでお尻を出さなくちゃいけないんだ」

 まったく気が乗らない大ちゃんだったが、進学校・県立高知小津高校でも相撲部に入部した。相撲どころ高知の中では強豪校ではなかったことから、稽古もほどほど。

 そんなゆるい相撲部時代から脱却したのは、近畿大学相撲部に入部してからだった。2年の西日本大会優勝を皮切りに、3、4年時にはアマチュア横綱、学生横綱を2年連続獲得。学生時代の通算タイトル数は16に上る。

 こうした実力を誇る一方で、飲み会では当時に大流行していたピンク・レディーの曲を歌って踊るなど、「宴会部長」としても大人気だった。

デビューからとんとん拍子で昇進

 卒業を前に「輪島以来の大物、長岡(本名)プロ入りか?」と、大ちゃんの周囲はにわかに騒がしくなってきた。教師志望から一転、

「こうなったら、相撲でメシを食うしかしょうがないな」

 と、決意した大ちゃんは、昭和53年春、高砂部屋に入門した。デビューの同年春場所、幕下付け出しの「長岡」(四股名)こと大ちゃんは、格の違いを見せつけて7戦全勝。夏場所は西幕下六枚目で6勝1敗の成績を収め、デビュー三場所目の名古屋場所で早くも新十両に昇進した。

 同年の九州場所で新入幕を決めると、翌年の初場所で10勝を上げて敢闘賞を受賞。春場所には、部屋伝統の四股名「朝汐太郎」に改名する。近年の「角界のアイドル」遠藤に勝る人気だった。

 大物ぶりは、昭和55年春場所で証明された。無敵の横綱・北の湖から金星をもぎ取ったのである。以来、これを含めて北の湖から13勝を上げ、「北の湖キラー」として名を馳せた。

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