ブギの女王「笠置シヅ子」の生き方 彼女が歌の舞台で起こした“革命”、そして“潔さ”とは

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「ブギの女王」が抱えていた悲しみ

 実は「東京ブギウギ」発売の前年、笠置に悲劇が襲った。恋人の子を出産するが、その直前、恋人が病気で急逝したのである。シングルマザーとして生きる決意を固めた笠置。「東京ブギウギ」は、そんな笠置へのエールを込めて服部が作った歌でもあった。作詞は服部が戦時中に上海で知り合ったジャーナリストの鈴木勝(1916~1971)。仏教哲学者の鈴木大拙(1870~1966)の息子である。

「東京ブギウギ」は多くの人がカバーした。が、やっぱり迫力では笠置にかなわない。服部の自伝「ぼくの音楽人生」(日本文芸社)によると、この歌のヒットによって《 敗戦の悲嘆に沈むわれわれ日本人の明日への力強い活力》につながってほしいという願いが根底に流れていた。

 ところで1956(昭和31)年、笠置は歌手廃業を宣言する。ブギの人気が下火になってきただけでなく、自らの体が太ってきたことが理由だったらしい。笠置の歌は踊りと切り離せない。踊れない歌手はもはや「ブギの女王」といえなくなる。

 服部は笠置のことを「常に妥協を許さない厳しい人」と称したが、一度こうと決めたら切り替えは速く、しかも頑固だ。その発言通り、同年12月31日、第7回NHK紅白歌合戦に出場して「ヘイヘイ・ブギー」を歌い、笠置は華やかな音楽界のスポットライトから静かにフェードアウトした。

 翌1957(昭和32)年、笠置は映画会社やテレビ局を訪れ、「これまでの歌手・笠置シヅ子のギャラではなく、これからは新人女優のギャラで使ってください」と挨拶して回った。ギャラのランクを自ら下げてくれと頼んだ芸能人なんて過去にいただろうか。

「ブギの女王」として君臨した過去の栄光にすがることなく、常に前向きで溌剌とした笠置の姿が目に浮かぶ。気さくな長屋のおばさんのような笑顔や「大阪のおばちゃん」的キャラクターを生かし、映画やテレビに出演。女優としての活動も始めた。

 私が懐かしく思うのは、TBS系の歌番組「家族そろって歌合戦」(1966~1980)の審査員の笠置である。番組は13年間も続いたが、いつも笑顔を絶やさなかった。勝ち残った人をほめるより、敗れた人に「惜しいなあ。惜しかった。またいらっしゃい」と声をかけることが多かった。まさに人情味のある審査員だった。

 一方、戦前・戦後のスター歌手たちが一堂に会し、往年のヒット曲を歌う「懐メロ番組」には出演しなかった。何度もラブコールを受けたのだろうが、断り続けた。「その潔さこそ笠置シヅ子であり、彼女の生き方だった」。新著「笠置シヅ子 ブギウギ伝説」(興陽館)を出した娯楽映画研究家の佐藤利明(60)はそう語る。

 笠置は1985(昭和60)年3月30日、卵巣がんのため東京都内の病院で息を引き取った。本名・亀井静子。享年70。最初に乳がんが発覚したのは14年前。1983(昭和58)年には卵巣がんの手術をした。あの明るい笑顔の影で、病と闘っていたのである。

 次回はアクションから文芸作品まで幅広いジャンルで活躍した俳優・松田優作(1950〜1989)。39歳で旅立って34年になるが、その人気は衰えない。死と隣り合わせで生きてきた男の原風景とは。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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