ブギの女王「笠置シヅ子」の生き方 彼女が歌の舞台で起こした“革命”、そして“潔さ”とは
歌の舞台に「動き」の迫力を持ち込む
話を戻す。
繰り返して言うが、笠置がその名を流行歌の歴史にとどめるのは、美声とか歌のうまさではなく、歌の舞台に「動き」の迫力を持ち込んだことだった。
舞台の上で踊ったり動いたりするのは今ではごくごく当たり前のことであるが、笠置の時代にあっては「革命的なこと」だった。昔は姿勢を正しくして歌わないとお客様に失礼にあたるということから、例えば東海林太郎(1898~1972)は直立不動で歌った。肉体の存在を声高に主張する激しい動きと解放感あふれる叫びが多くの人の胸に響いた。
要は、それまでの日本にはいなかった新しいタイプの歌手だったということである。「東京ブギウギ」がヒットしたお陰で世相が明るくなったのは間違いない。
さて、そんな歌を世に伝えた笠置とはどんな人物だったのか。
1914(大正3)年、香川県生まれ。
「からだも弱いし家も貧乏なので芸で身を立てよう」
と幼いころから日本舞踊を習い、小学校卒業と同時に松竹歌劇団(SKD)の前身、松竹楽劇部へ。踊りと歌で一躍人気者になった。1938(昭和13)年に東京へ移り、大阪と東京の楽劇部が合流して帝国劇場で旗揚げした松竹楽劇部に参加。ジャズ歌手として売り出した。そのころから笠置のリズム感の良さに注目していたのが服部良一だった。
「東京ブギウギ」以来、笠置は数々の「ブギもの」を世に出したが、中でも売れたのが1950(昭和25)年に発売の「買物ブギ」。45万枚を売り尽くし、歌詞のオチとなった「わて、ホンマによう言わんわ」は関西言葉に触れる機会のなかったエリアの人々に強烈なインパクトをもたらした。
それにしても、昔の映像を見ると、笠置が所狭しとダイナミックに踊っているのが分かる。なぜそんなに舞台の上で動き回ったのだろうか。
戦時中、当局から舞台で何メートル以上動いてはならぬなどと、そのダイナミックなアクションを制限されていた笠置。内心は面白くなかったに違いない。だからこそ「東京ブギウギ」を皮切りに「ホームラン・ブギ」「ジャングル・ブギー」「買物ブギ」など自由奔放に歌いまくり、踊りまくったのだろう。あの美空ひばり(1937~1989)も笠置を大変意識していたというから、「ブギの女王」の面目躍如である。
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