ブギの女王「笠置シヅ子」の生き方 彼女が歌の舞台で起こした“革命”、そして“潔さ”とは
その天真爛漫な明るさに、どれだけ多くの国民が救われたことでしょう。敗戦による暗い世相を吹き飛ばした「東京ブギウギ」を歌った笠置シヅ子(1914~1985)。NHKの朝ドラのモデルとして改めて注目が集まっています。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は「ブギの女王」として知られた彼女の知られざる横顔に迫ります。
【写真】日本中が元気をもらったあの笑顔、ステージ、そして大物たちとの共演姿
すさんだ時代を明るくした歌
モヤモヤした気持ちになったとき、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」に耳を傾ける。8ビートの激しいリズム。
「東京ブギウギ リズムウキウキ 心ズキズキ ワクワク……」
と、こんなフレーズで始まる軽やかな歌唱は浮かれ調子で、どこかやけくそ気味に聞こえなくもないが、だからこそ理屈抜きに胸がスーッとするのだろう。
あの歌は、敗戦後のGHQ(連合国最高司令官総司令部)による植民地的雰囲気が覆っていた1948(昭和23)年1月に発売された(吹き込みは47年秋)。暗い世相を吹き飛ばす勢いで瞬く間に全国的に広がり、子どもにまで口ずさまれた。大きな声を張り上げて歌い、舞台を駆け回る笠置のスタイルは斬新。「これが敗戦国の姿か」と進駐軍の米兵も驚くほどの明るさと、爆発的なエネルギーに満ちあふれていた。
古い日本映画を見ていると、焼け跡や闇市のシーンで流れてくるのは並木路子(1921~2001)の「リンゴの唄」より「東京ブギウギ」のほうが多いのではないか。混沌として猥雑で雑多な雰囲気の闇市には、陽気な「東京ブギウギ」のほうが似合うのだろう。
作曲した服部良一(1907~1993)はかつて朝日新聞の取材にこう答えている。
《だれもがみんな大声でワァーッと叫びたくなるような時代でしたでしょう。この歌で日ごろのうっぷん晴らしをしたということも、爆発的に受け入れられた一因かもしれませんね》(95年4月19日 夕刊芸能面)
一方、戦前・戦後を通じて音楽娯楽番組を手がけたプロデューサーの丸山鉄雄氏(1910~1988)は著書「歌は世につれ」(みすず書房)の中で、「東京ブギウギ」をこう位置づけている。
《被圧迫民族ニグロの音楽の持つあきらめと反発と解放感の入りまじった感覚が、半植民地的状態に置かれていた当時の民衆の生活感情になんらか訴えるものがあったのであろう》
当時の民衆とはもちろん、敗戦後まもない日本人を指す。
たしかに時代はすさんでいた。空襲で焼け野原になった街には闇市ができた。日々の生活に困窮していた多くの人々が集まったが、一方で危険と隣り合わせの風景が広がっていた。愚連隊が大手を振って歩き、恐喝やスリ、置き引きが横行。「ラク町」と俗に呼ばれた東京・有楽町のガード下は「夜の女」と呼ばれた街娼たちのたまり場となった。
生きるため、やむなく夜の世界に身を投じた女たち。言葉は悪いが「パンパン」と呼ばれた。「パンパン」と手をたたいて招いたという説やインドネシア語で女性を意味する言葉が訛ったという説などがあるが、どれも確証はない。だが、社会全体が荒っぽかった当時の世相を反映する言葉ではある。
そのパンパンをテーマに掲げた小説が作家・田村泰次郎(1911~1983)の「肉体の門」だったが、笠置の「東京ブギウギ」も乱世の中でのあるがままの人間像をさぐり、人間とは何であるかを探求しようとした歌だったといえるかも知れない。闇市の空きっ腹の庶民に、「生きるとは何か」を問いかけた強烈な歌だった。
[1/3ページ]