巨人V9から半世紀 当時の主力・柴田勲が語る「年俸の裏側」と「伝説のサヨナラ3ラン」

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打者転向を決断させるための登板

 6月、川上監督に呼ばれた。

「そろそろバッターに転向しないか」

 柴田は「もうちょっと投手をやりたい」と懇願した。

 7月、調子が上がったわけでもないのに1軍昇格。中日戦で登板を命じられた。この年は阪神に差をつけられ、優勝は厳しくなっていた。ためらう柴田の尻をたたくように川上が言った。

「投げろ、いいから投げろ」

 案の定、3回途中で6失点。ひどく打ち込まれると、川上監督が言った。

「どうだ柴田、あきらめがついただろ」

 それは、柴田に打者転向を決断させるための登板だったのだ。柴田はもはや拒めなかった。すると、川上監督が言った。

「柴田、日本のモーリー・ウィルスになれ」

 最初はピンとこなかった。

「ミッキー・マントルという右でも左でも打つ打者がいるのは聞いたことがあった。でも、モーリー・ウィルスのことは知らなかった」

 戸惑う柴田に、川上は熱を込めて語った。

「コーチの牧野茂がドジャースに野球留学した時に見てきた。右でも左でも打つスイッチヒッターで、盗塁王でもある。この選手がドジャースの攻撃の起点になっている」

 モーリー・ウィルスはこの62年、タイ・カッブの98盗塁をしのぐ104盗塁でメジャー新記録。3年連続盗塁王になっただけでなく、208安打、打率.299の活躍でナ・リーグMVPにも輝く。

「明日から左で打て」

 MLBの野球を変革したウィルスに匹敵する選手を日本で育てようとした川上の慧眼と貪欲さに脱帽する。

「明日から左で打て、スイッチヒッターになるんだ」

 川上監督は、柴田獲得の時点からその構想を描いていたのかもしれない。

「最初のポジションはショートでした。『2年後に広岡達朗の後釜になれ』と」

 ところが、センター不在のチーム事情が柴田の1軍野手デビューを大幅に早めた。翌63年には、

「柴田を早く使いたい」

 という川上監督の意向で、ショートでなく外野手として1軍に呼ばれた。

「5月の広島戦。明日はスターティングメンバーでいくぞと言われた。広島の先発はシュートが武器の右投手・長谷川良平さんでした」

 柴田は初めて左打席に立った。その2打席目、インコースから真ん中に入ってくるシュートを捉えると、打球はライトスタンドに舞い降りた。

「あの一打は、いまでもはっきりと覚えています。打球が飛んでいく光景が頭に浮かびます」

 次の試合でも、右のエース大石清からホームランを打った。転向して1年もたたないのに、プロ野球のエース級から続けて2本。これで決まった。川上監督の思い描いた「スイッチヒッター、1番柴田」は早くも現実になったのだ。ひとりほくそ笑む川上の顔が浮かぶようだ。これにはもうひとつ秘話がある。柴田が教えてくれた。

「入団発表の前後に、中学時代の恩師と川上監督が会う機会があった。その時、恩師が川上さんに聞かれて、『左でも遊び程度に打っていましたよ』と話したそうです。川上さんはそれを覚えていたんです」

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