巨人V9から半世紀 当時の主力・柴田勲が語る「年俸の裏側」と「伝説のサヨナラ3ラン」

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 今から遡ること50年前、川上哲治監督率いる読売巨人軍は9年連続日本一を成し遂げた。柴田勲はその間、レギュラーとして活躍した。彼の覚醒、そして川上巨人の偉業はいかにして達成されたのか。知られざる“栄光の裏面史”にスポーツライターの小林信也氏が迫る。

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 柴田勲は1960年、法政二高の2年生エースとして、夏の甲子園で全国制覇。3年春にもセンバツで優勝、戦後初の夏春連覇を達成した。3年夏は準決勝で剛速球投手・尾崎行雄を擁する浪商と対戦。延長11回の末に敗れた。その時、浪商のレフトを守っていた1年生が後に巨人で1、2番コンビを組む高田繁だ。

 柴田は、“元祖甲子園のアイドル”とも呼ぶべき人気選手。当然、プロ野球から誘いを受けた。当時はまだドラフト制度もなく、自由競争。

「巨人のほか、南海、東映、大洋から誘われました。とくに南海が熱心で、鶴岡一人監督が日本シリーズの合間も含めて5回来てくれました。エースの杉浦忠投手を連れて来られたこともあります。契約金は南海がいちばん高くて3千万円。巨人は1500万円でした。親父が『勲の好きな球団を選べ』と言ってくれたので、『子どものころから巨人ファンだから巨人に行きたい』と」

「じゃあ左で打ってみろ」

 思えば、当初から川上哲治監督の言動はおかしかった。初めて父親にあいさつに来た時、

「川上監督が言ったんです。『お父さん、息子さんは大丈夫です。バッティングがいいから、投手がダメでもバッターで成功します』と。自分は投手でプロ野球に入るつもりだったから、戸惑いました」

 入団1年目のキャンプでは投手の練習に専念した。が、キャンプでも不思議な出来事があった。投手陣の打撃練習中、川上監督が柴田に、「左でスイングしたことはあるか」と声をかけた。

「スイングくらいはしたことがあります」と答えると、

「じゃあ左で打ってみろ」

 言われるまま柴田は左打席に移った。遊びで打ったことはある。その時もごく普通に投手の球を打ち返した。川上は満足そうにうなずいた。まさかそれが、後の運命を左右するなどと柴田は思いもしなかった。

 オープン戦で3勝。好投が認められ、開幕2戦目の先発投手に指名された。

「新人なのに、すごい抜てきですよね。阪神戦、相手の先発は村山実さんです。僕は5回途中まで投げて、3本のホームランを打たれた」

 実はこの日、柴田の右肩は悲鳴を上げていた。開幕直前、投手コーチの別所毅彦から、

「プロの投手はスタミナが必要だ。2日間、300球投げ込んだらどうだ」

 と指示された。柴田の肩は休まなければ投げられない自称「休み肩」だった。キャンプでもずっと休み休み投げていた。それが別所には物足りなかったのだろう。

「言われたとおり投げ込んだら肩が上がらなくなった」

 大抜てきから一転してファーム落ち。2軍で調整するが肩の痛みは癒えない。

「打者の手元でピュッと伸びる球が生命線でしたが、そのキレが戻らなかった」

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