田中角栄 赤坂の料亭で流通前の新1万円札を取り出して…他の政治家には絶対にマネできない「カネと女」の流儀とは

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錦鯉を運ぶ

“作業”はそれで終了ではなかった。

「角さんの秘書に呼び出され、金を詰め終わった段ボール箱を一つ北陸の自民党系候補の元に運ぶよう命じられたのです。車ではなく電車で行けというので、重い箱を抱えて新潟から向かいました。今襲われたらどうしよう、と内心ドキドキしながらね。候補者本人に渡せとの命令だったので、“角さんからの陣中見舞いです”と言って手渡しました」(同)

 無論、陣中見舞いは金だけに限らない。

「角さんが何かを配る時の口癖は“圧倒的な差を見せつけろ”。他の議員が一升瓶を1本寄付したら、こちらはケースや樽ごと送る。後援会では誰に何をどれくらい配ったかをしっかりとリストにまとめており、選挙の際には前回と同等かそれ以上の物を送るように、と厳命されていた」

 と言うこの越山会関係者が“運べ”と命じられて最も驚いたのは、

「地元新潟の名産の錦鯉。県内の業者から買った錦鯉をビニール袋に入れ、新潟から目白の角さんの自宅まで運びました。てっきり、自宅の庭に放すものだと思っていたら、そうではなく、事務所の人がどこかに持っていく。後で聞いたらそれは高級な錦鯉だったらしく、支援者の元に運ばれて金に換えられる、とのことでした。現金だとまずい場合などにそうした手法が取られていたようです」

生きたお金の使い方

 ここでざっと角栄の人生を振り返っておくと、1918年に新潟県で生まれ、高等小学校卒ながら代議士となり、国権の頂点に上り詰めたのは、54歳の時。しかし、栄華は長くは続かず、金脈批判で総理を辞し、その約2年後にはロッキード事件で逮捕されてしまう。それでもしばらくの間、闇将軍として隠然たる力を誇示していた角栄が脳梗塞で倒れたのは、竹下登らが創政会を結成した85年。これにより表舞台から完全に姿を消し、失意のうちに他界したのは93年12月16日のことだった。

「金権政治家と揶揄されることも多いですが、角栄さんのお金の使い方は実はとてもきれいで、自分のためではなく、周囲にどんどん渡してしまう。“金は貸したら返ってこないと思え”というのが口癖だった彼はとにかく、“生きたお金の使い方”に長けていた」

 そう語るのは、長らく角栄の番記者を務めた「新潟日報社」の小田敏三社長。

「ある時、角栄さんが何人かの記者を連れて伊豆辺りの旅館に泊まったことがありました。到着すると、彼はまず秘書の早坂(茂三)さんに旅館で働いている女中の人数を尋ねます。早坂さんが答えると、人数分のご祝儀を用意して配ります」

 人心掌握術に長け、“人間学博士”とも呼ばれた角栄の真骨頂が発揮されるのは、ここからだ。

「帰り際にはあいさつに来た女将(おかみ)さんに“皆でお菓子でも食べて”と10万円ほど渡す。すると女将さんは“いえ、昨晩のうちに秘書の方から頂いています”と答える。そこで、角栄さんは早坂さんの方を見てニヤッと笑って“お前、気が利くな”と言い、“これは僕からだ”としてそのお金を女将さんに再び差し出すのです。一連の言動で、角栄さんは、早坂さんの顔を立て、女将さんの心もつかんでしまったわけです」(同)

 角栄流の気配りはそれで終わりではなく、

「調理場の方にも向かい、料理人たちに対して“おいしかった。本当にありがとう”と声をかける。料理人たちはまさかそんなことを言ってもらえると思っていないから驚き、出発する時には、皆が見送りのために玄関に出てきて大盛り上がりでした」(同)

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