【田宮二郎の生き方】衝撃的な死の直後、妻が公開した日記の中身「本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに…」

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直前まで書かれた日記

 衝撃的な結末について、当時の朝日新聞の社会面をもとに時系列で説明する。

 12月28日午前11時半ごろ……付き人を寝室に呼ぶ。「食事をしたい」とベッドから起き上がる。付き人は仕出し屋に弁当を買いに行く。

 同午後1時ごろ……付き人帰宅。1階でお茶を淹れた後、2階に上がったら、ベッドの上で仰向けになって倒れていた田宮を発見。

 寝室の隣にある書斎の机の上には、妻や子どもたち、義母、付き人、友人に宛てた遺書が布製の袋に入っていた。その数、8通。達筆な字だったという。妻と2人の息子は、南青山のマンションで別居中だった。

 机の上には日記が置いてあった。自殺した28日付で、一緒に暮らしていた義母を意味しているのだろう、こんな書き出しでつづられていた。

《おかあさんが本日入院しました》

 続いて、遺書めいた言葉が続く。

《なお、ぼくも死を選びます。何を語ってもぼくの生きる方法はないと思います。許してください》

 日記はこの年の11月から付け始めたものだった。《頭が痛い。そううつ病だ。生きる力を失った。みんなに迷惑をかけた》とも書かれていた。

 日ごろは静かな元麻布の高級住宅街で起きた悲劇だけに、マスコミ関係者が大勢駆けつけ、騒然とした雰囲気に包まれた。田宮の自宅は白塗りの塀に囲まれ、洒落た和風の門が目を惹いた。正月が近いからなのだろう。門の前には門松が置かれ、車庫には主を失ったロールスロイスが1台、停まっていた。

 夜遅くまで続いた弔問客。誰もが硬い表情。

「4、5日前に電話で話したとき、いきなり泣き出しました。毎年、クリスマスには友人70から80人が集まって田宮邸でパーティーを開くのですが、『今年は開けないのですよ』と言っていた」と、親交のあった国会議員。

 学生時代から知っているという女優の宮城千賀子(1922~1996)は、「あの冷静で頭のいい男性がなぜ……。バイタリティーも事業的才能もあったのに」と言葉を詰まらせた。

 午後8時過ぎ、弔問に訪れた俳優の伴淳三郎(1908~1981)は一言。

「神経を病んでいるのは知っていたが」

 そのころ、田宮の周辺では金銭関係をめぐる噂が絶えなかった。だが、これについてはよくわからない面もあり、詳しく書くのはよそう。

 衝撃の自裁から2日後の12月30日。都内のホテルで、妻が洋装の喪服で記者会見した。机の上には田宮の遺影が置かれていた。妻は、田宮の仕事は順調であり、借金など金銭トラブルもなく、死の理由は全く分からないと強調。ただ、今年に入って田宮が躁鬱状態を見せ始め、事業に手を広げる動きもあったという。「恥ずかしいことをした」と悔やみながら、自殺をほのめかすこともあったらしい。この事業計画については、妻も内容をあまり知らなかったようだ。

 会見では、遺書と受け取れる田宮の日記が公開された。妻や2人の子どもに寄せる深い愛情が窺える内容だったが、自分自身の反省とも読み取れる日記でもあった。《本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに、それを知り乍ら、働くことしか生き甲斐のない人間になっていった》など、その言葉は切実である。妻に宛てた日記の文面はこんな感じである。妻の名前を仮名にし、原文のまま一部を抜粋する。

《十二月一日の夜、青山のマンションから、僕が麻布に戻る時、「ひとり置いてゆかないで!」とS子(妻の名前)は云った。涙をふき乍ら、そう云ったS子の顔は、いまでに 見せたことのないものだった。「もちろんさ!」と僕は答えた。しかし心の中をみすかされた僕は、あなたの左手をギュッと握ることしか出来なかった。/ もう自分でもとめることは出来ないところへ来てしまった。/生きることって苦しいことだね、死を覚悟することはとても怖いことだよ。/四十三歳まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上の倖せはないと自分で思う》

 結びにはこうあった。

《病で倒れたと思ってほしい。事実、病なのかもしれない。そう思って、諦めてほしい》

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