【田宮二郎の生き方】衝撃的な死の直後、妻が公開した日記の中身「本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに…」
その死は、あまりにも衝撃的でした。主演を務めていたドラマは高視聴率。俳優業の他に司会業も順調。なにより、ダンディーでクールで知的な二枚目……。世間がイメージしていた俳優・田宮二郎(1935~1978)です。しかし、こちらからは窺い知れない深い闇を抱えていました。彼の人生とは何だったのか――。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は1978(昭和53)年の年の瀬に飛び込んできた大ニュースの瞬間から振り返ります。
大スターの突然の訃報
年の瀬の空気など吹き飛んでしまいそうな衝撃のニュースが、日本中を駆け抜けた。
1978年12月28日の昼過ぎ、東京・元麻布の自宅寝室で散弾銃自殺を遂げた俳優・田宮二郎(本名・柴田吾郎)である。「2階の寝室で倒れている」と付き人が119番通報。救急隊が駆けつけたが、すでに死亡していた。享年43。
当時の警察発表によると、田宮は洋室のベッドの上にパジャマ姿で仰向けに倒れていた。付き人が発見したときには、胸のあたりまで毛布がかかっていた。散弾銃の銃身の先が毛布からのぞいており、田宮は銃を抱えるように亡くなっていたという。足の指で引き金を引いて自殺したのだろう。心臓に命中し、ほぼ即死状態だった。2発の散弾のうち、1発は銃に残っていた。
端正なマスクに180センチの長身。空手は初段の腕前で、英会話も達者だった。大映の人気スターから映画製作者、テレビタレントなど、数々の仕事をこなす彼の生活は華やいで見えた。
当時、放送中だったテレビドラマ「白い巨塔」(フジテレビ)でも、主役の非情な医師役を演じて好評だった。
高校生だった私は、テレビ朝日のバラエティ番組「クイズタイムショック」の司会者を務めていた田宮の姿を鮮明に覚えている。歯切れのよい司会だった。番組冒頭に「タイムショック!」と視聴者らに呼びかけ、出演者へのインタビュー、番組進行など、一切を切り盛りした。
「世の中のカッコ良さを独り占めする男」
最大級の褒め言葉だったが、それは表面的なこと。自死する前の年から極度の躁鬱病になり、四谷の病院にかかっていた。不眠症で睡眠薬を常用していたが、かなりの借金があったともいわれる。「死にたい」と妻にもらし、「こうやれば死ねるんだ」と、寝室の絨毯の上に脚を伸ばして座り、散弾銃を両脚の間に抱えるようにして自殺のまねをしたことが何度かあった。
田宮はクレー射撃が趣味で、自殺に使った散弾銃を含め2丁を自宅に保管していた。いずれにしても実生活は、ドラマの世界で役を演じるように、クールには生きられなかったのかもしれない。
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