「最多勝」や「新人王」を獲得も以後パッとせず…「1シーズン限定」で輝いた“忘れがたき選手”

スポーツ 野球

  • ブックマーク

お立ち台での決め台詞は「キター!」

 オリックス入団2年目の2008年、15勝3敗、防御率2.51で新人王に選ばれながら、以後、忽然と輝きを失ってしまったのが、小松聖である。

 08年、小松はマウンド上で雄叫びを上げる気迫の投球とお立ち台での決め台詞「キター!」をトレードマークに、チームトップの15勝を挙げ、11年ぶり2位浮上の立役者となった。

 翌09年春、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表入りをはたした小松は、2次ラウンド1、2位決定戦の韓国戦で2回2/3を無安打5奪三振の快投で勝利に貢献。ここまでは順風満帆だった。

 だが、シーズン開幕後、初の開幕投手を務めた4月3日のソフトバンク戦で5回7失点KOされて以来、別人のように精彩を欠いた投球が続く。同10日のロッテ戦も5回6失点で2軍降格。前年の勢いを最後まで取り戻すことなく、1勝9敗、防御率7.09で終わった。

 翌10年は先発、リリーフで5勝を挙げたものの、8月末に右肋骨の疲労骨折で離脱。その後、12年6月25日の西武戦で695日ぶりの白星を手にし、「ホームでお立ち台に立って、『キター!』を復活させたい」と誓ったが、14年以降は登板機会が激減し、4試合登板に終わった16年限りでユニホームを脱いだ。

「(15勝を挙げた)2年目はメカニック的に、はまった感じがありました。ただ、フォームのなかでチェックポイントをしっかり持てていなかったんです。『ここがこうなっているからいいボールがいく』『これができていないから悪い』というポイントがなかった。(中略)2年目の時点でポイントを見つけられなかったことが、あとにつながったのはあると思います」(2016年12月12日付『ウェブ・スポルティーバ』 「短すぎた絶頂期。『しくじりエース』小松聖が若手に伝えたいこと」、文・谷上史朗)。

 プロセスの大切さを痛感させられる話である。

「夢は叶えられた。未練はないです」

 22歳で盗塁王のタイトルを獲ったのに、これが野球人生のピークになったのが、藤村大介である。

 2008年に高校生ドラフト1巡目指名で巨人に入団した藤村は、4年目の11年5月に1軍初昇格をはたすと、二塁の定位置を獲得。10月11日の阪神戦では、藤川球児から左中間にサヨナラ二塁打を放った。同年は打率こそ.222ながら、28盗塁を記録し、平成生まれの選手では史上初、球団では93年の緒方耕一以来の盗塁王に輝いた。

 だが、背番号を「54」から「0」に変更し、さらなる飛躍を期した翌12年は、寺内崇幸、古城茂幸の台頭で出番が減り、盗塁数も14と半減。13年以降も打撃不振から1軍と2軍を往復する日々が続き、15年はケガの影響で1度も1軍に上がれなかった。

 そして、再び1軍出場なしで終わった17年オフに戦力外通告を受けると、「トライアウトも頭にあったが、巨人を敵に回して戦う姿がイメージできなかった。小学生のころに、作文で巨人にドラフト1位で入って盗塁王と本塁打王を取りたいと書いていた。本塁打は打てなかったけど、夢は叶えられた。未練はないです」と巨人ひと筋を貫き、28歳の若さで引退した。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。