“暴力横綱”と叩かれ廃業した横綱・双羽黒 「このまま時が流れて…」本人が生前に語っていた心境とは
「花のサンパチ組」では“大器晩成”型
昭和54年春場所、初土俵を踏んだ光司は、15歳にして195センチ、110キロ。新弟子の中では、頭抜けた存在だった。
同期生の保志(のちの横綱・北勝海=現八角理事長)は、「化けモノみたいにデカいヤツ」と、一瞬で存在を認識。その後、2人は「花のサンパチ(昭和38年生まれ)組」として、出世を競い合うことになる。
父母の心配をよそに、光司は、翌夏場所、7戦全勝で序ノ口優勝を果たす。序二段は2場所で通過、三段目も7場所で卒業し、56年初場所では、早くも幕下に昇進した。
17歳。この時点で、同期ではトップの番付だった。その後、幕下でも順調に番付を上げていたのだが、負傷で休場をしている間に、保志は19歳で十両に昇進して、光司を追い抜いた。保志の昇進は、マイペースな光司に火を点けた。
そして、59年初場所、「大器」はようやく十両に昇進。20歳の北尾は、その地力を一気に開花させる。
名古屋場所で十両優勝し、翌秋場所には新入幕を果たしたのだ。
さらに、入幕2場所目の九州場所では、横綱・北の湖から金星を挙げて殊勲賞を受賞。その後は、毎場所のように技能賞、殊勲賞の三賞を獲得して、一気に「大関候補」一番手に名乗りを挙げたのだった。
物議を醸した昇進問題は意外な理由で着地
この北尾の活躍ぶりに、「花のサンパチ組」の面々は、闘争心を掻き立てられる。保志、琴ヶ梅、寺尾、孝乃富士、そして小錦……。
「サンパチとその周辺の世代の力士って、『常に走っている』というのが、基本だったんですよ。友人であり、ライバル。そして、敵でもある。『自分らみんなが主人公』みたいな感じだった。切磋琢磨していたから、上に行った(出世した)力士が多かったんです」
筆者が行った平成22年のインタビューで、当時の北尾さんはこう振り返った。
61年初場所では、22歳で大関に昇進。昇進後の成績は、10勝、10勝、12勝、14勝。と、すべて2ケタ勝利。この時点で、北尾の横綱昇進を望む声は多かった。
ただし、横綱昇進の基準は、「優勝、もしくは優勝に準ずる成績を2場所以上続けること」。直近2場所で、12勝、14勝の好成績を収めている北尾であっても、「基準」には当てはまらない。
北尾を横綱に昇進させるべきか、否か――。おおいに物議を醸した昇進問題は、意外な理由により着地した。
この場所(名古屋場所)、北尾を含めて、大関は5名(大乃国、朝潮、北天佑、若嶋津)。加えて、場所後には、関脇・保志の大関昇進が確実だったこと。千代の富士の1人横綱を解消させたかったこと。そしてなにより、22歳という若さに将来性を感じさせる……。
などの理由から、場所後、北尾は第60代横綱に推挙されることに決まったのだ。土俵入りは、不知火型となった。
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