「国が認めない人間国宝」と評された高田渡 家賃5万8000円の木造アパートで暮らしたフォークシンガーの生き方とは

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「僕の生き方は贅沢」

「生活の柄」「仕事さがし」……どの歌も“味わい深い”だとか“円熟している”などといった言葉では片付けられない存在感や色気があった。何よりもユーモラスで軽やか。その音楽に励まされた人は大勢いるだろう。

 私事になるが、2010年、前立腺がんが見つかり、都内の病院に入院。摘出手術を受けた。そのとき会社の上司が、渡さんのCDを見舞いに持ってきてくれた。深夜、寝静まった病室でイヤホンを耳に入れてCDを聴いた。ちょっぴりの放逸さと、何よりも人を気遣う優しさを持った人だったが、音楽もその人柄と同じようにしみじみと聴き手の心に染み入った。歌詞が風景になって目の前に現れてくるような感じもするのである。

 話を戻そう。渡さんは、やはり日本語が持つメッセージ性の強い歌が真骨頂だった。英語が氾濫し、アメリカもののコピーのような歌とは一切関係がなかった。そして、何度も繰り返し言うが、声高に主義主張を掲げる作風でもなかった。35年暮らしていたという住まいは(失礼ながら)くたびれた木造アパート。家賃は5万8000円だったという。電気は15アンペアまでしか使えず、洗濯機などいくつかの電化製品を使いながらドライヤーをかけると、突然、停電になったりしたこともあったそうだ。

 フォークソングがニューミュージックと呼ばれようが、音楽業界が商業主義に染まろうがマイペース。肩書、学歴、財産……何かと持ち物が多すぎて前のめりになりがちな現代人を、渡さんならユーモラスに皮肉るだろう。

「僕の生き方は贅沢っていえば贅沢だよね。自分でしたい仕事をしか選ばない。それはひとりでやっているからできるのであってね、事務所を構えている人にはそれはできないだろうね。仕事がなくたって別になんにも気にしない」

 そんな言葉を残している。風のような人だった。だが、決して孤独ではない。人に会うのは好きだった。「人から色々な養分をもらって帰る。人に会うと『ああこういう考えもあるんだ』って」とも言っていた。ワイワイ騒いだりすることも好きだったのだろう。

 映画「タカダワタル的」には、若いスタッフを渡さんが自分のアパートに連れて帰って一緒に飲んでいる姿が映し出されていた。初対面の人でも、相手の手を両手で包み込むような握手をしたという。

「長生きなんかしたくない」。そんなことも言っていた渡さんだったが、「けど明日、すぐに逝くって訳にもいかないんですよ」とも言っていた。

 56歳の死は、やはり若すぎる。

 次回は、映画「白い巨塔」などで知られる俳優・田宮二郎(1935~1978)。端正なルックスとスリムな体。クイズ番組「クイズタイムショック」の司会としても人気があった。1978年12月28日に起きた、あの衝撃の散弾銃自殺について迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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