「池袋暴走」、受刑者側に賠償命令…整備士だった“被害者実父”がどうしても許せなかった「事故は車のせい」という責任逃れ

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接客に耐えられず退社

 悲しみのどん底に突き落とされた遺族が、慌ただしく葬儀を終えると、否応なく日常という現実に向き合わざるを得なくなる。その1つが仕事だ。

 上原さんも事故発生から約2週間後、職場に復帰した。

 しかも引き続き、事故車への対応だ。もう車を触るのも嫌な状態だった。

「会社で損害の見積もりをできるのが私だけだったんです。だから仕事を再開したのですが、事故を起こしたお客さんから『ブレーキが効かなくて』とまた言われる。お客さんは、(被害者の遺族という)私の立場を知らないから仕方がないのですが、そんな言い分を聞くだけで苦しくて耐えられなくなり、会社に相談して接客のない部署へ変えてもらいました」

 板金、塗装といった修理をメインにする部署へ異動したが、ただでさえ事故の影響で仕事が手につかない。自宅に帰っても眠れない日々が続き、普段は飲まない酒の力を借りた。事故が起きなければ65歳まで働き続ける予定だったが、事故から1年後の62歳で退職した。

「精神的にダメでした」

交通費捻出のためにマンションを売却

 二度と行きたくないと思っていた東京へも頻繁に通った。

 飯塚受刑者への厳罰を求める署名活動や裁判、打ち合わせ、命日の献花などで事故後に上京した回数はこれまでに20回を超える。刑事裁判は被害者参加制度を利用したため、国から交通費や宿泊費が支給されるが、そのほかは自腹だ。付き添ってくれる親族も含め、1回の往復に10万円近くかかる。仕事も辞めていたため、経済的な負担が重くのしかかった。自宅マンションのローンも10年ほど残っていた。

「真菜と拓也くんは将来、沖縄に移住してカフェをやる計画だったんです。だからマンションに住んでもらおうと思っていましたが、その予定もなくなり、東京までの交通費を捻出するためにマンションを売りました」

 事故によって狂わされた人生。あれから4年半が経過し、損害賠償請求訴訟の判決が言い渡された。まだ控訴の可能性があるとはいえ、裁判に一応は一区切りがついた。上原さんが心境を吐露する。

「長くて辛い4年半でした。刑事裁判は1日2~3時間で終わり、また来月来てくださいという繰り返し。もっとてきぱきできればなあと思いました。相手(飯塚被告)が歳を取っていたから長時間できないというのもあるのでしょうけど、だったら被害者遺族の私たちはどうでもいいのかって。民事裁判なんて5分で終わる日もありましたから」

 被告の都合が優先され、愛する肉親を失った遺族はなぜ二の次なのか。

 もっとも刑事訴訟は、被告を裁く審理であるが故、遺族はこれまで傍聴席で黙って見守るしかなく、法廷の「蚊帳の外」に置かれてきた。2008年に被害者参加制度が導入され、被告人質問や証人尋問に参加できるようになったが、上原さんのように遠方から足を運ぶ遺族にとってはやはり、不公平感が生じる。そんな現実を突きつけられてきたからこそ、被害者支援の在り方にも目を向けるようになった。

「事故の後は色々な面で毎月出ていく支払いが増えました。被害者遺族が日々の生活の中で、どんなふうに困っているのかはあまり知られていない。自分が当事者になって初めて気づくことがたくさんありました。そんな苦しい経験をこれからはお話ししていきたい。本当は事故が起きる前と同じように、静かに生活できればよかったけど、それはもう叶わない。だから真菜と莉子のために前向きに生きていきたいと思います」
 
 自分が代わってあげられなかった無念を背負いながら――。

水谷竹秀(みずたにたけひで)
ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。最新刊は『ルポ 国際ロマンス詐欺』(小学館新書)。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。昨年3月下旬から2ヵ月弱、ウクライナに滞在していた。

デイリー新潮編集部

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