油脂ソリューションで食の新たな機能を生み出す――久野貴久(日清オイリオグループ代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】
「炒める」「揚げる」から「かける」オイルへ――。一時は肥満の原因として敬遠された油も、いまや体にいいものを積極的に摂取する時代に変わった。その代表格が「アマニ油」だ。日清オイリオはこの普及をけん引しただけでなく、戦前から日本の食文化を下支えしてきた。その彼らが考える油の未来像とは。
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佐藤 外国で長く暮らすと、意外に気になってくるのが食用油です。私は外務省の語学研修で1986年にイギリスに行ったのですが、フィッシュ&チップスなど、油で揚げたものがどうもしっくりこない。あとで、それはひまわり油を使っていたからだと知りました。
久野 欧州ではひまわり油が一般的ですね。日本のサラダ油は主に大豆と菜種、キャノーラ油は菜種から作りますから、少し風味が違います。
佐藤 その後、ロシアに赴任すると、そこも同じひまわり油なのですが、精製方法が違うのか、ひまわりの香りが強いんですね。現地の日本人はそれに閉口して、日本食料品店で日清オイリオの前身である日清製油の油を買っていました。
久野 ありがとうございます。人が感じる味覚には甘味、塩味、酸味、苦味、うま味がありますが、近年ではそれらに続く第6の味覚「油味」があるといわれています。人は、本能的に油をおいしいと感じ、また、それを記憶するのではないかと思います。
佐藤 ひまわり油は日本でもある程度使われているのですか。
久野 順位からすると、上位ではありませんが、使われています。
佐藤 どんな使い方をされているのですか。
久野 日本で主に使われているひまわり油は味や香りがほとんどなく、フライ用に適しています。香気成分となるリノレン酸が少ないことが、揚げている最中の胸焼けや油酔いがあまりしない理由のひとつといわれています。
佐藤 そうすると、業務用には適しているわけですね。
久野 ええ、長時間、揚げ物をする調理現場には向いていますね。ただ日本だとちょっと値段が高い。
佐藤 日本でもロシア料理店では標準装備です。やはり油にはその国の食文化の基盤を形作っているところがある。その意味では、長い歴史があり、いまは日本の食用油の約35%を占める日清オイリオは、日本の食文化を規定してきたといえますね。
久野 そこまでいえるかわかりませんが、歴史は古いですね。弊社は1907(明治40)年の創業で、当時は「日清豆粕製造」と言いました。社名通りに大豆の搾り粕、いわゆる大豆ミールを扱い、肥料の原料として販売していました。これが1918(大正7)年に「日清製油」となり、事業ドメイン(領域)が油に変わっていきます。
佐藤 背景にあったのは、化学肥料の発達でしょう。アホウドリの糞の堆積物に含まれるリンが肥料になることがわかり、日本でも大東諸島のラサ島の開発が始まるのがその頃です。それが伝統的な豆粕などの肥料に取って代わった。
久野 そうかもしれませんね。それで画期的なのは、1924年に日本で初めて「サラダ油」を発売したことです。
佐藤 サラダ油という言葉自体も御社が作ったわけですか。
久野 はい。精製の度合いを高めて、冷えても固まらない、サラダなどの非加熱料理にも使える油として名付けました。以後、その名前は日本農林規格の等級の一つとなっています。
佐藤 生野菜にかけて食べる文化を生み出したわけですね。
久野 その翌年には、日本産のマヨネーズが誕生します。それで野菜を生で食する習慣が定着していく。最初の頃は高価な商品でしたので限られた人たちだけだったと思いますが、その後広く普及しました。サラダ油によって新しい価値を生み出したともいえます。
佐藤 私は1960年生まれですが、幼い頃、まだ油は高級品の扱いであったかと思います。当時はお中元、お歳暮のやりとりが今より盛んでした。わが家もそうでしたが、その品目の中で喜ばれたのは、オイルの詰め合わせでした。
久野 弊社が食用油ギフトセットを販売し始めたのは、1951年です。お中元、お歳暮の中では価格帯が高く、贈る方も贈られる方も満足する品物でした。個人間だけでなく大きな法人需要もありましたから、これが伸びて、収益のかなりの部分を占めていた時期がありましたね。
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