日本シリーズ、伝説の“代打サヨナラ満塁本塁打”を打った男 元ヤクルト「杉浦享」の野球人生を振り返る!
「あのころはボールしか目に入らなかったね」
10月28日からプロ野球の日本シリーズが開幕する。これまで数多くの名勝負が演じられてきた“頂上決戦”だが、1992年のヤクルト対西武第1戦では、現役引退を決意していたベテラン選手が、シリーズ史上初の代打サヨナラ満塁本塁打を放ち、勝利のヒーローになった。ヤクルトひと筋に23年間プレーした杉浦享である。【久保田龍雄/ライター】
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愛知高時代は快速球の左腕としてならし、4番を打った杉浦は、1970年夏の愛知県大会では、初戦の同朋戦で5回を無安打無失点に抑える一方、準々決勝までの4試合で右中間へのランニング2ランを含む16打数9安打9打点2本塁打と打撃でもアピール。準々決勝の豊橋東戦で放った大会9号ソロは、大会開幕後、初めての柵越え弾として話題になったが、試合は2回5失点でKOされ、甲子園出場の夢を絶たれた。
高校卒業後は社会人の富士重工で野球を続ける予定だったが、同年のドラフトでヤクルトに10位指名されると、恩師に相談してプロ入り。同期に若松勉(3位)もいた。
打力を買われ、一塁手に転向した杉浦は、2年目の1972年に1軍初昇格。翌73年シーズン途中、王貞治に一本足打法をマスターさせた荒川博が打撃コーチ(74年から監督)に就任すると、猛特訓を受けた。
「プロの水にも慣れ、第一線に出るきっかけを掴もうと、荒川コーチとスイングに明け暮れる毎日だったね。(中略)あのころはボールしか目に入らなかったね」(週刊ベースボール1990年1月29日号)。
「王選手並みのヘッドスピードの持ち主」
だが、同じ一塁には小田義人や大杉勝男がいたため、なかなか出番に恵まれない。「他人を蹴落としてまでという貪欲さがない分、プロ野球選手に向いてないかもしれませんね」と自ら語る優しい性格の“いい男”は、広岡達朗監督時代の77年に外野にコンバートされると、一気に花開く。
翌78年は6番レフトとして初めて規定打席に到達。9月20日の中日戦では、0対2と完封負け目前の9回裏、星野仙一から右中間席に起死回生の逆転サヨナラ3ランを放ち、チームの連続試合得点記録を「116」に伸ばした。
さらに翌21日の中日戦でも、3対3の9回裏無死満塁、レフトにサヨナラ犠飛を打ち上げ、2日続けてヒーローに。チームの優勝マジックを「9」に減らした。
同年は打率.291、17本塁打、67打点で、球団創設29年目の初Vの大きな力となり、阪急との日本シリーズでも、第2戦で2打点を挙げるなどの活躍で、日本一に貢献した。
大杉、マルカーノが相次いで引退した85年、後継4番に指名された杉浦は、ダウンスイングをアッパー気味に改造し、大砲への変身を図るが、開幕直前に背筋を痛め、力が入らなくなった。そこで、やむを得ず力まないフォームで打ったところ、面白いように快打を連発する。
もともと「王選手並みのヘッドスピードの持ち主」と言われるほどスイングが速いので、ボールを待つくらいの間合いでも十分対応できる。ケガの功名によって、打撃の極意を掴んだ瞬間だった。同年は打率.314、34本塁打、81打点とずれもキャリアハイの成績を残し、4番の重責をはたした。
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