実刑判決から40年…田中角栄が教える“正しい札束の配り方” 側近議員は「俺が運んだのは1億円」
札束の厚さで評価を伝える
戦後の高度成長期と軌を一にした、43年にもわたった議員生活。その間、角栄がばらまいた札束の総額は、数百億円とも1千億円ともいわれる。が、彼の配り方には流儀とも法則ともいうべき共通項が見て取れる。その一つが初対面で渡部氏を虜にしたような独特の気配りだ。
角栄が2度の幹事長を務めた時期(昭和40~41年、昭和43~46年・ともに佐藤栄作内閣)を含め、30年以上にわたって自民党幹事長室長を務めた、奥島貞雄氏(80)が振り返る。
「夏のちょうどいまの時期、多くの議員が外遊に出ますね。角さんは7月半ばを過ぎると、外遊を予定している議員を個別に幹事長室に呼んで、餞別を配るのを恒例にしていました」
角栄はそれらの議員と会う前に、誰がどこに行くのか、その議員が会期中にどんな働きをしたのか、つぶさに把握していたという。
「あらかじめ、事務方に調べさせておくんです。私も知り合いの新聞記者や党の国対事務局に、角さんから言われた議員の委員会への出席状況や法案審議における態度などを細かに聞いていました。というのも、当時は委員会をサボりまくる議員や適当な質問でお茶を濁す議員は少なくなかった。角さんはそれを見越して、幹事長室に呼ぶ前に独自の論功行賞の判断を下していたのです」
その拠り所となるのが、事務方の独自調査をまとめた詳細なメモだった。
「私たちとの打ち合わせが一段落すると“よっしゃ、電話せい”と、例のダミ声で指示が来ます。で、事務員が議員会館に電話をすると、ほどなく議員がやって来る。面談はものの5分から10分程度ですが、話す内容は旅先のことや家族の近況など雑談ばかり。議員活動の是非には一切触れません。それを適当なところで切り上げると、角さんは現金を入れた茶封筒を渡すのです。金額は相手によってまちまちでしたが、大抵は100万円。少ない場合は50万円の時もありました」
毎年、角栄が呼び出す議員は20人から30人前後。彼らが何かの拍子に角栄から渡された金額の多寡を比べることがあれば、そこで自分の評価を知ることになる。角栄は直接、相手を褒めたり叱ったりすることはせず、十分な働きには分厚い札束で報い、そうでない議員には薄い札束で発奮を促した。さり気なく自らの評価を伝えていたのである。
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