野村克也に「日本野球を変えた」と言わせた外国人選手とは? 「サイクル安打」も日本に紹介(小林信也)

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8打席連続四球

 パ・リーグ随一の強打者だった野村(南海)にとってスペンサーは、タイトル争いの宿敵でもあった。

 65年、野村は結果的に初の三冠王を獲得するが、8月半ばの時点では三冠ともスペンサーが野村を脅かしていた。とくに本塁打はスペンサーが33本、野村27本と差を開けられていた。この状況でパ・リーグの投手たちが野村の援護に回ったのは、その後もしばしば見られる「外国人にタイトルを渡したくない」という日本野球独特の伝統の先駆けでもあった。

 オリオンズ戦で8打席連続四球の記録もある。しかもうち4打席は“投げる精密機械”と異名を取り、シーズン最多無四死球試合10回を2度も記録している小山が投げていた。意図的に勝負を避けたことは疑いようもない。次の試合も2打席連続で敬遠された。うち一度は満塁の場面。押し出しで1点を与えてまで、スペンサーに打たせなかった。怒ったスペンサーは次の3打席目、敬遠球を無理やり打って連続四球記録は終わった。この四球攻めで調子が狂ったか、3割3分近くあった打率を3割1分台まで落とした。本塁打は38本とあまり伸ばせず、野村に抜かれた。しかも残り11試合の時点でオートバイ事故に巻き込まれ右足を骨折。終盤戦を欠場し、42本塁打の野村の三冠王を許す形になった。

“サイクル安打を日本に教えた選手”としても有名だ。

 65年7月16日、来日初三塁打を打ち、サイクル安打を達成した。ところが試合後、記者たちがまったく騒がない。不思議に思ったスペンサーが逆に尋ねると、日本の記者たちは誰もサイクル安打を知らなかった。これをきっかけに日本野球機構が過去の記録を検証し、第1号は藤村富美男だと判明。その後は公式記録に認められ、連盟表彰も行われるようになった。これも「スペンサーが日本の野球を変えた」と言われるひとつのゆえんだ。

 少年だった私には「猛打」「苛烈」といった印象の強いスペンサーだが、野村が「日本野球を変えた」と形容したいちばんの理由はおそらくそのことではない。

 スペンサーは「野球博士」と呼ばれるほど緻密な分析眼で自らの打棒を支えていた。

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