伝説のストリッパー「一条さゆり」の生き方 “反権力の象徴”と呼ばれた異例の裁判闘争と釜ヶ崎での寂しき晩年

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一条の前に一条なく、一条の後に一条なし

 全盛の昭和時代は、個性豊かな多くの踊り子が出た。中でも「反権力の象徴」として語り継がれてきたのが一条さゆり(本名・池田和子)である。

「一条の前に一条なく、一条の後に一条なし」。そう言われた伝説の踊り子。小沢さんが心の底から敬愛していた踊り子だった。

 亡くなったのは1997年8月3日。肝硬変のため大阪市内の病院で死去した。享年60とされるが68という説もある。

 新聞各紙は翌4日、訃報を報じたが、自宅は大阪市西成区萩之茶屋2丁目の「釜ヶ崎解放会館」となっていた。大学闘争の嵐が吹き荒れたころから70年代にかけ「特出しの女王」と呼ばれ、新左翼やウーマンリブの活動家らからは「反権力の象徴」と祭り上げられた経歴もあり、釜ヶ崎の解放会館を自宅としたのかもしれない。

 踊り子を引退した晩年は、釜ヶ崎にある労働者向けの食堂で朝4時から3時間、皿洗いの仕事に就いていた。時給600円。6畳一間のアパートの日払い家賃が800円だから、ぎりぎりの生活だった。肝硬変を患っていたという。

 一条の生い立ちを簡単に説明する。

 新潟県で生まれ、物心つかないうちに両親と死別した。12人きょうだいの8番目だったといわれる。里子に出され、埼玉県川口市で育ったらしい。

 20歳のとき、東京の百貨店でエレベーターガールとして働いていた。ヤクザにだまされ、男の子を産む。ヤクザは「堕ろせ」、そう怒鳴って出て行ってしまった。幼い子を背負ってストリップ劇場をめぐり、舞台に立つ日々。

 その半生を綴った元東大講師・駒田信二(1914~1994)の実録小説「一条さゆりの性」(講談社・1971年)で人気に火がつく。

 秘部から白い液体がとろりと流れ出し、それがライトに照らされてキラリと光る……。これ以上、詳しくは書けないが、他の踊り子には絶対まねできない「秘技」を舞台上で披露し、絶大な人気を得た。

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