伝説のストリッパー「一条さゆり」の生き方 “反権力の象徴”と呼ばれた異例の裁判闘争と釜ヶ崎での寂しき晩年

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「ストリップは大衆娯楽。猥褻にはあたらない」と主張して最高裁まで争ったストリッパーの一条さゆり(1927?~1997)。何度も警察に逮捕され、それでも舞台に立ち続けた彼女を支えていたものとは何か――。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は「特出しの女王」にして「反権力の象徴」でもあった“伝説の踊り子”の生涯に迫ります。

どこまで見せるか見せないか

 虚か実か。芸能の本質とは、虚と実の微妙な間にある――。そんな「虚実皮膜」の論を唱えたのは、江戸時代の劇作家・近松門左衛門(1653~1725)だった。

 脱ぐか脱がぬか。どこまで見せるか見せないか。スポットライトに照らされつつ、舞台上で優雅に、ときには妖艶に舞うストリップショーも、「裸の芸能」と評していいのではないか。

「踊り子はセクシーなだけでは駄目です。舞台の上では心の美しさや人生観がにじみ出るのです」

 しみじみとそう語っていたのは、京都の老舗ストリップ劇場「DX(デラックス)東寺劇場」で働いていたポスター描きのおじさんだった。

 ところが、ストリップを見る世間の眼は相変わらず冷たい。新聞の世界でも、ストリップが興行として誕生した昭和20年代には劇場まわりの記者がいて、ユニークな記事が紙面を飾った。しかし、いまはコンプライアンスの問題などもあり、ストリップを新聞のネタとして扱うこと自体が難しい。

 1947(昭和22)年に東京・新宿の帝都座で産声を上げた「額縁ショー」から76年。振り返ると、これでもかこれでもかと「見せ物」の内容が過激になった一時期もあった。未成年を舞台に上げて当局に摘発された劇場もあった。

 裏も表も踏まえた上で、ストリップを真面目にとらえていたのが俳優の小沢昭一(1929~2012)だった。こんな言葉を残している。

《ストリップよ。いつまでも、世のヒンシュクを買う“毒”をたっぷり含んで、野風にさらされながら暗闇の中で咲いておくれ》(「私のための芸能野史」芸術生活社・1973年)

「香盤」と呼ばれるスケジュールをもとに、10日単位で日本各地の劇場から劇場へと渡り歩く。楽屋泊まりを重ねて1年365日の大半は旅の空。

 小沢によると、日本の興行界の中で「原始的職業芸能者の放浪性」を最も色濃く反映しているのがストリッパーだという。

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