「伊藤博文を中国皇帝の側近に起用せよ」――日本型の改革を目指した中国の天才思想家がたどった末路
日清戦争での大敗を受けて、中国でもいち早く明治日本をモデルにした改革を行おうとした知識人がいた。その名は康有為(こうゆうい)。著名な中国革命の父・孫文とほぼ同郷の出身にて、先輩にあたる。
大胆にも伊藤博文を中国皇帝の側近に起用しようとしたが、根回し不足の性急な改革は各方面の反発を招き、彼が主導した「戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)」はあえなく挫折することになる。
はたして、康有為とはどのような思想家だったのか。京都府立大学教授の岡本隆司さんの著書『悪党たちの中華帝国』では、その事跡を詳しくたどっている。同書から一部を再編集して紹介しよう。
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康有為が生まれたのは1858年、広州府南海県においてであり、現在の広東省仏山(ふつざん)市南海区にあたる。そのため「南海」というのが、かれの呼び名・別名にもなった。士大夫の家柄に生まれ育ったかれは、もちろん科挙をめざして勉学に励む。
たいへんな秀才だったようで、当時既定コースの漢学・宋学を学んでも満足できず、陽明学・仏学も修得した。さらに香港・海外に近い広州という土地柄の育ちゆえだろうか、西欧諸学の訳書も渉猟し、その知見もとりこんでいる。そのうえで公羊学にふれ、これを独自に発展させた。
康有為なる人物を一言で表現するなら、思想家というべきだろう。しかも重厚深奥な思索者ではなく、既成理論を援用するタイプの知識人であって、だから気質はむしろ軽薄とみたほうがよい。
士大夫の伝統的な儒教の素養のうえに、「知行合一」や講学など、陽明学の思念・行動の様式をくわえ、さらに翻訳書からえた西洋思想を公羊学に折衷附会(せっちゅうふかい)して、独自の学問をつくりあげた。八宗兼学の博識を素材にしながら、相互の齟齬(そご)矛盾に悩むよりも、各々を軽やかにこじつけて統合する、といったやり方である。日清戦争後に壮大な変革構想をいだいて、直ちに思い切った政治運動に移したのも、持ち前の気質から極端に走った結果ではあった。
かたや、かれを登用した光緒帝も、沈毅(ちんき)冷静という印象からは遠い。「国是の詔」にはじまる勅令の連発からもわかるだろう。改革に関わる人事でも、それは変わらない。意見の合わない、気に入らない臣下は仮借(かしゃく)なく罷免(ひめん)した。「国是の詔」を発布した直後、自分の師傅にして股肱(ここう)の側近だった翁同和(おうどうわ)という重臣を免職に処したのは、その好例である。積極的意欲的に映る姿勢は、慎重な思慮が足らない、と言い換えてもよい。
要するに二人は、軽躁(けいそう)という点で好一対、相い似た主従だった。中央政府の権威で有無を言わさず「変法」を一挙に推進してしまおうとしたわけである。
性急な改革
これに対して、公然たる反撥・違背はなくとも、積極的な遵守・支持も少なかった。心ある官僚はたとえ改革に賛成であっても、あまりに性急な動きには応じられなかったからである。
1898年の「戊戌変法」はいわばサボタージュをもって迎えられ、そのプランはほとんど実行をみなかった。光緒帝・康有為の主従は短気なだけに、反対の態度が目につく官僚を早々と排除しはじめる。そうなると、反対派も黙ってはいない。康有為に対する非難弾劾の声もあがり、党派対立の様相を呈してくる。
いよいよ焦燥を強めた主従は8月26日、地方大官の怠慢を厳しく叱責する勅命を出し、ついで9月4日には、意見上申を妨げたとして礼部の首脳を6名全員罷免した。いまの日本なら、さしづめ文部科学省の大臣・次官をまとめてクビにするようなものである。
翌9月5日、光緒帝は側近の秘書官・相談役として、譚嗣同(たんしどう)ら康有為一派の少壮官僚4人を登用した。実質上の宰相任命であり、破格の抜擢(ばってき)だといわれる。反対派の排除につづく自派の強化であった。
それだけにとどまらない。9月11日には、天津で新式部隊の編成調練にあたっていた袁世凱(えんせいがい)という中級官僚の抜擢をもとめる上奏があった。これも康有為の起草である。袁世凱の抱き込みは、機先を制して反対派を武力で圧倒してしまうねらいだった。反対派が頼みとした西太后の住む頤和園(いわえん)を包囲攻撃する密謀までくわだてていたのである。
袁世凱の「裏切り」
袁世凱が入京、謁見(えっけん)したのは9月16日。中央省庁の次官待遇で「練兵事務」に集中するよう命ぜられた。異例の昇進ではありながら、かれ自身が裏面を悟ったようには思えない。2日後の18日夜、宿舎に訪ねてきたのはその10日ほど前、やはり異例の抜擢をうけた譚嗣同である。袁世凱の主張によれば、かれから頤和園包囲のクーデタ荷担を強いられたため、あいまいな返答だけして帰らせた。
袁世凱は9月20日に参内し請訓する。そこで前日に頤和園から紫禁城にもどってきていた西太后に密告、そのあとすぐ正午近く発の汽車に乗って天津に帰り、上司の総督にして西太后の姻戚の栄禄(えいろく)に一切を報告した。
こうして翌21日、政変が起こった、というのが「変法」派の解釈で、つまり袁世凱がいったんは味方につきながら寝返った、とするわけである。しかし客観情勢からみて、それは康有為らの主観的な期待過剰にしか思えない。あるいは失敗の責任を転嫁するため、あえて曲筆を弄しているのかもしれない。
この間の経緯そのものに、なお不可解な点も残る。なぜ西太后がにわかに紫禁城に帰還し、光緒帝から実権をとりあげたのか。理由が明らかではない。また21日の政変から「変法」派に対する弾圧・処断に及ぶまで、少し間隔が空いている。その意味するところもやはりわからない。
伊藤博文の「本心」
時を同じくして物議を醸したのは、北京訪問中の伊藤博文を光緒帝の側近に迎え、改革の顧問とするという案だった。康有為らは実際、伊藤に協力を申し入れている。そして袁世凱が請訓し天津にもどった同じ20日、伊藤は光緒帝に謁見した。
伊藤本人は康有為の要望に応えるつもりはなかった。「断として軽躁の行為あるべからず」、「急激の改法に従ふときは適(まさ)に以て乱階たらむのみ」と訴えたくらいである。康有為という人物とも、そりが合わなかったらしい。
けれども伊藤の存在・参内だけで、外国人を宮廷の内部、政権の中枢に入れるという風聞がひろまり、アレルギー反応を起こした清朝の官僚は少なくなかった。西太后もその一人であり、さすがに常軌を逸しているとみて、ひとまず光緒帝を抑える決断にいたったのだろう。
袁世凱も大多数の官僚と同じように、康有為一派の言動にはとてもついていけなかった。軍隊を掌握する栄禄は、袁世凱から報告を受けると、9月25日に北京の召喚命令に応じて上京、西太后に謁見した。西太后は密謀の確証を得たため、「変法」派の処罰を断行する。光緒帝は宮中に幽閉、手配のあった譚嗣同ら与党は捕縛処刑、康有為・梁啓超ら数名は逃れて日本に亡命した。「変法」はほぼ白紙にもどる。
「中華帝国」を覆った改革の気運は、この政変をへて急速に減退した。改革が必要だという認識は、程度の差こそあれ、多くの官僚・人士が共有したものである。だからこそ西太后も、光緒帝主導の「変法」の進展をひとまず見守っていた。「戊戌変法」における康有為の性急な手法は、かえって改革を頓挫(とんざ)させて、「中華帝国」の変革をいっそう難しくする結果をもたらしたといえよう。
政治家としての康有為は、以上の事跡でほぼつきる。それは政治家・実務家として、およそ適性がなかったことを示すといってよい。これから四半世紀ほど後、1927年、失意のうちに歿した。
1925年、晩年の「好々爺」康有為を「見物」したのが、東洋史学の碩学・学生時代の宮崎市定である。満腔の賛意をもって、通訳の「悪口」を書きとどめた。
「初対面の人にあんな立ち入ったことまで話すのは少し軽率だ。あんなふうだから、せっかく天下を取りそうになってもすぐ失敗したのだ」
※岡本隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)から一部を再編集。