「失業率は70%」「子どもの20~25%は治療が必要なレベル」 ガザの苦難の実態とは
「安心できる場所はない」
電力供給の停止に伴って医療機関も機能停止状態。安置所から溢れた遺体は道端に無造作に並べられている。
「75歳の母と、兄弟姉妹6人がガザに住んでいます」
と声を震わせて語るのは、さる東京在住のガザ出身女性である。
「毎日、FaceTimeやワッツアップで電話をしたり、メッセージを送っていますが、1分程度しか話せず、安否を確認するくらい。“大丈夫?”“気を付けてね”“安全を祈っている”くらいしか伝えられません。その間も、後ろでは爆撃音や子どもたちの泣き叫ぶ声がひっきりなしに聞こえています」
母親は自宅にとどまったまま、避難していないという。
「逃げろと言われてもどこに逃げればいいのか。妹の友人は実家に逃げたものの、そこが爆撃に遭って両親ともども亡くなってしまった。安心できる場所なんてありません」
事実上の封鎖
まさに修羅場であるが、ガザの苦難は今に始まったことではない。
簡単に歴史をおさらいすると、1948年、イスラエルが建国されて以来、ここは係争の地となった。PLO(パレスチナ解放機構)に率いられたパレスチナ人とイスラエルとが激しい闘争を繰り広げてきたが、93年、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長との間で「オスロ合意」が結ばれる。ここで両者の地位が確認され、パレスチナ人は地中海に面したガザ地区と、内陸のヨルダン川西岸地区の二つの地区での自治権が認められた。以来、イスラエルと両地区との間で平和共存の道が探られるはず――であった。
ところが、ほどなくラビンが暗殺され、アラファトも没すると事態は一変。自治区は二つの派閥に分裂する。ヨルダン川西岸地区はPLOの後継組織であるファタハが治めたが、ガザ地区は2007年に武装組織「ハマス」が実効支配。イスラエルと協調路線をとるファタハに対し、抵抗を強めるハマス。結果、イスラエルはガザ地区の周囲に高さ8メートルもの壁を立て、事実上、封鎖しているのである。
[3/5ページ]