「無謀なトレーニングで子どもたちは壊れてしまう」 140年間続く「小学生に英語を教えるべきか」論争に専門家が提言
学校教育で「使える英語」を習得するのは土台無理
小学校から高校までの英語の授業時間はせいぜい千時間程度です。SLSが求める2200時間の半分以下の授業で一般の人が「使える英語」を身に付けるのは、土台無理な話です。こうした困難な壁に日本人は立ち向かい続け、当然のように挫折を繰り返し、それでもなお過去の経験から学ぼうとしていない。そしていまも、海外ビジネスで活躍できる「グローバル人材」、言い換えればごく一部のエリートを育てようと、貴重な学校教育の時間を使って小学校から英語を学ばせているのです。
私に言わせれば、国体選手を体育の授業だけで育てようとしているに等しく、無謀以外の何物でもありません。そんなハードなトレーニングを課せば、大抵の子どもたちは壊れてしまいます。現に、前回で説明したように、いまの子どもたちの間では英語嫌いが増えてしまっている。小学校からの過度な「英語特訓」によって、子どもたちの「学ぶ意欲」を破壊してしまっているのです。
教育の新自由主義
それでもなお、政府・財界の“本音”は次のようなものであると推測できます。一部のエリートだけが「使える英語力」を身に付けて、その人たちが国を引っ張っていってくれればそれでいいのだと。教育における新自由主義です。
しかしこの考え方は、少なくとも公教育においては完全に間違っていると言わざるを得ません。
教育とは富士山のようなものであって、スカイツリーではない。幅広い裾野があってこそ、いわゆる「エリート」は育つのです。にもかかわらず、はじめから普通の子どもたちに無茶な「英語特訓」を課して英語嫌いを増やし、裾野を狭めてしまっては、真のエリートが出てくるはずもない。
そして真のエリート、それは裾野の人たちも引き上げてあげられる目配りや心遣いができるリーダーシップを持った人です。「自分だけ」の人を真のエリートとは呼ばないはずです。なぜなら、そんな人は慕われないからです。他の子を押しのけて高得点を取り、周囲を気にせず自分の栄達を図る。裾野の存在を意に介さず、スカイツリーのように一直線に高みまで到達した――そんな人が同僚として会社にいたら、好かれるはずがありませんよね?
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