コロナ禍をフックにぴあを「変身」させる――矢内 廣(ぴあ創業社長)【佐藤優の頂上対決】
他業種とのコラボへ
佐藤 矢内さんが大物経営者たちに気に入られたのも分かる気がします。創業者は独善的だったり、強烈な個性を持っていたり、あるいは宗教団体の教祖のようなカリスマ性があったりするものですが、矢内さんはまったく違う。極めて自然体です。
矢内 経営者としての私は、自分で引っ張るというより、何もかも人に任せてしまう方なんですよ。任せすぎて、クーデター事件が起きたこともあります。
佐藤 いつごろですか。
矢内 1992年です。役員たちから突然、辞任要求を突きつけられたんです。その何カ月か前に、役員だけの大部屋ができたんですね。社長がいると話しにくいというので、私は部屋に入らなかった。でも、そこで話が進められていたんですよ。
佐藤 会社の状態が良くなかったのですか。
矢内 バブル崩壊の影響を受けていましたが、外部からさまざまなエキスパートを招いて、新しいマネジメントシステムを構築していたときでした。
佐藤 クーデターはどう収めたのですか。
矢内 もう会話が成立しない状態でしたから、稲盛さんに相談に行ったんです。そうしたら叱られましてね。「信頼して任せたにしても、こんな結果になるまでどうして分からなかったのか」と。稲盛さんは会社の取締役会まで来てくださり、役員を説得してくださった。それで解任されずにすんだのですが、11人いた役員のうち7人が会社を去り、残り4人と私で再スタートすることになりました。松下幸之助さんが「任せて、任せず」と言っていますが、それがようやく分かりましたね。
佐藤 雑誌の「ぴあ」は2011年に黒字のまま休刊になりました。これはどういう判断でしたか。
矢内 このままいったら赤字になることは、はっきりしていました。もう情報を伝えるのは紙媒体ではない、インターネットにはかなわないと分かりましたから、役割は果たしたと判断しました。
佐藤 その後は、自らイベントを主催したり、横浜にぴあアリーナMMという自前のイベント施設を造るなど、さらに業態を変化させています。
矢内 時代に合わせて会社を変化させるのは当たり前のことです。ただ、今回のコロナ禍は事業の存立基盤そのものを崩壊させるようなインパクトがありました。チケット事業は8割減で、時代に合わせてと言っている場合ではなくなった。いまはコロナ禍をフックとして「変身」しなければならないと思っています。
佐藤 変化でなく、変身ですか。具体的にはどうするのですか。
矢内 まずは利益の大部分を占めるチケット流通ビジネスへの依存度を下げなくてはいけないですね。
佐藤 ポートフォリオを組み直していく。
矢内 その通りです。その上で、今後はこれまでとは違った事業を作っていこう、というのが変身です。
佐藤 もうすでに何か始められているのですか。
矢内 エンターテインメントに軸足を置きながら、他業種の会社とコラボできるのではないかと考えています。例えば、街づくりです。ぴあアリーナMMは、三菱地所さんの土地をお借りする形で建設しましたが、ここでいろいろ学ばせていただいた。街にはやはりエンターテインメントが必要で、私たちにはそのノウハウがあります。だから昨年、三菱地所さんと合弁会社も作りました。
佐藤 矢内さんは73歳ですが、まだまだ事業欲が旺盛ですね。
矢内 いや、実は最大の課題は後継者なんですよ。創業者で社長で筆頭株主、この三つがそろうと後継者を作るのが非常に難しい。いまはそれに一番頭を悩ませています。
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