裁判長に年齢を聞かれ「23歳」と答えたものの…87歳「袴田巖さん」の獄中手記が凄すぎる

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日本が浮かれていたあの頃、巌さんは

 最高裁で死刑が確定した1980年11月、巖さんは44歳だった。そして翌81年4月に第1次再審請求を行っている。3月が誕生日なので、この間に45歳になっている。巖さんは、普通なら働き盛りの年代の頃に、死刑判決に翻弄された。

 当時、1970年代のオイルショックを乗り越えた日本経済は、その後のバブル経済に向かって右肩上がりだった。米国の社会学者エズラ・ヴォーゲル氏が1979年に『ジャパン・アズ・ナンバーワン――アメリカへの教訓』(邦訳はTBSブリタニカ)を出版し、70万部を超える大ベストセラーに。日本人は自信に満ち満ち、ある意味、いい気になって浮かれていた時代でもあった。筆者も大学を卒業して大手カメラ会社に就職した社会人1年生で、前途に不安など微塵もなかった。

 巌さんは一人息子をもうけた後で離婚はしていたとはいえ、真面目で働き者の彼なら、当時の空気に浮かれることなく、勤勉実直に働いて、堅実で幸せな人生を送れていたはずだ。だが、その時でも逮捕から14年の監獄生活が続いていた。

 確定してしまった死刑。恐怖におびえながらも、当時の巌さんが獄中からひで子さんに送った手紙が編集された『主よ、いつまでですか』(袴田巌さんを救う会編、新教出版社、1992年)を少し紹介する。

《姉上様

 前略、暑い中、面会、差し入れありがとうございました。一八日缶詰一〇個、リンゴ五個、レモン五個、和菓子一箱、それぞれ受け取りました。東京拘置所も熱帯夜が続いております。この酷暑に耐えるには、日々の節制が大切であることを痛感させられています。皆様のご無事を心からお祈りしております。集会の成功を謹んでお祈りいたします。

 さて、拒絶的な態度、閉ざされた心を開くものは何か。人間の社会はなぜにこんなにも幸福になり難いのであろうか。その原因は一体何かを考えるとき、聖書が教える、すべて生きる者の罪の問題につき当たらざるにはいられない。(中略)

 ある時、思います。一〇年後も、二〇年後も私はこうして同じように拘禁され、屈辱多い毎日を繰り返しているのではないか、という疑念を繰り返すだけで老いていく人生。そう思うだけで権力犯罪の罪の重さを知る。私は生きていることがこれでよいのかと考えずにはいられません。人間が日々、老いていく。これは当たり前で当然である。

 われわれの生まれたその日から確実に死というものに近づいている。死から遠ざかりえる人間はどこにも存在しない。この当然を多くの人は考えようとしない。あるいは忘れているのではないか。人間は必ずいつかは何かの原因で死ぬるものである。死なぬ人は全くいないのだ。》

 1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災で市民ボランティア団体「がんばろう!!神戸」を立ち上げ、遺族らの精神的ケアに腐心してきた俳優の堀内正美氏は「人間は誰しも死に向かって確実に歩んでいる。ただそれがいつなのかわからないだけ。大震災は一秒先の人の運命もわからないことを示していた」とよく筆者に話していた。毎年「1・17」の慰霊式典が行われる三宮駅南の東遊園地に灯される「希望の灯り」の碑文には、堀内氏が作成した「震災が奪ったもの命 仕事 団欒 街並み 思い出/たった1秒先が予見できない人間の限界…/震災が残してくれたもの やさしさ 思いやり 絆 仲間/この灯りは 奪われた すべてのいのちと/生き残った わたしたちの思いを むすびつなぐ」という文章が刻まれている。

 ただ、ほとんどの人は自分の死などに無頓着で、のほほんと生きていられる。巌さんの場合は、「何かの原因」がまるで違う。突然の天災や病気、事故などではない。国家によっていつ絞首されるかわからないという運命を背負って檻の中で生き続ける。そういう境遇に放り込まれて初めて「人の死」を意識するようになっただろう。

 それにしても、文章が非常に落ち着いていることに驚かされる。巌さんはこの頃から、洗礼を受けてクリスチャンとなり、熱心に聖書を読んでいた。絞首刑の恐怖から精神を病んでもおかしく状況にあった巌さんを救ったのはキリスト教だったのだろう。

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