裁判長に年齢を聞かれ「23歳」と答えたものの…87歳「袴田巖さん」の獄中手記が凄すぎる
明らかにすべき弁護過誤
10月6日付の朝日新聞朝刊の「オピニオン&フォーラム」の欄に小川弁護士のインタビュー記事が出ていた。小川弁護士はここで、記者に「弁護側はなぜ、一審でもっと争わなかったのでしょうか」と問われ、明確に弁護過誤を指摘している。
《今から見れば適切な弁護だったとは言えません。ただそれには理由もあります。60年代には被疑者段階で弁護士がつくケースは少なく、接見禁止も多かった。被疑者と弁護士との意思疎通の難しい時代でした。それでも、袴田さんが逮捕されてから19日後に『自白』するまで、3人の弁護士が1回ずつ、合計37分しか接見しなかったのはひどすぎます。(中略)
その(註:5点の衣類)中のズボンは袴田さんには小さすぎて、はくことができません。それなのに一審では着用実験もしていない。そもそも犯人が血のついた衣類をわざわざ麻袋に入れて、みそタンクに隠すのは不自然です。再審決定で裁判所は、衣類は捜査機関が捏造した可能性を指摘しています。でも長い間、捜査機関はおかしなことはしないはずだという偏見があった。冤罪は偏見の積み重ねだと感じます》
多くの冤罪は当初の弁護士の失敗が大きい。弁護団の弁護過誤について筆者はこの連載でかなり書いてきたつもりだが、袴田事件に関する新聞記事などではこうした記事はこれまでほとんど見なかった。
袴田事件に関するバイブル的存在であるジャーナリストの高杉晋吾氏による『地獄のゴングが鳴った』(三一書房、1981年)も、弁護過誤という観点からはほとんど書かれていない。綿密に取材していた彼なら、もちろんわかっていただろうが。
「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長は、「(一審で袴田さんの無罪を訴えていた元裁判官の)熊本(典道)さん(1937〜2020)は、『明らかに最初の弁護団の弁護過誤だ』と強調していました。記録をどう見ても弁護過誤です。ただ、当時は仕方なかったかもしれない。袴田さんに面会するにも検察の許可が必要だった。まともな弁護活動はできないでしょう。しかし、袴田さんが無実だと思って真剣に弁護活動をしていた弁護士は斎藤準之助さんだけだったと思います。ただ、彼は民事裁判が中心で刑事弁護の経験は少なかった。ひで子さんにある時その話をしたら、『弁護士さんの刑事や民事なんて、当時の私たちには違いもわからなかった』と言ってました。突然、肉親が逮捕され、無理もないでしょう。そういう意味で本当に巌さんは不運だったんですよ」と話している。
「23歳」と答える巖さん
さて、静岡新聞などの報道によれば、静岡地裁の國井恒志裁判長が9月29日、静岡地裁浜松支部で巌さんに面会した。國井裁判長が年齢を問うと、巌さんは「23歳」と答えたという。過去にも支援者が催した誕生会で歳を尋ねられて、巌さんは「23歳」と答えたことがあった。
國井裁判長との面会には、弁護団の田中薫弁護士と間光洋弁護士、そしてひで子さんが同席した。そのやり取りについてひで子さんに後日伺うと「口外しちゃいけないことになってるんですよ。それなのに新聞とかに漏れちゃったらしい。内容についてはノーコメントなんです」とのことだった。
10月10日、弁護団は静岡地裁に、釈放後に巖さんが書いた日記(ひで子さんに見せてもらったことがあるが、ほぼ支離滅裂な内容だった)のコピー、昨年12月に東京高裁の裁判長と巌さんが面会し「事件はない」「裁判は終わった」などと語っていた際の記録などを提出し、出廷免除を求めている。國井裁判長は、拘禁反応の影響が強い巌さんが出廷に耐えられるかを確認するために来たのである。
小川弁護士は「法廷に裁判長が呼ぶことはないでしょう。(出廷するのは)とんでもないこと。(巖さんがいるのは)妄想の世界です。でも、そもそも巌さんが妄想の世界に入ったのは、裁判所が誤った判断をし、その結果(死刑執行の恐怖)から逃げるためでした」と話す。
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