“究極の隠し玉”と呼ばれた男も…まさかの「ドラ1位指名」で、プロで飛躍した名選手

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高校最後の1年間を棒に振るも

 高校在学中、チームが3度にわたる対外試合禁止処分を受け、公式戦で2試合投げただけだったにもかかわらず、サプライズの1位指名を受けたのが、1983年の南海1位・加藤伸一である。

 倉吉北高時代は、1年夏にベンチ入りをはたしたが、県大会の開会式直後に体罰事件が明るみに出て、無念の出場辞退。新チームは秋の県大会を優勝したものの、今度は4月と5月に起きた暴力事件が発覚し、翌年6月まで対外試合禁止になった。

 そして、処分が解禁になった2年夏、加藤は背番号10の2番手投手ながら、練習試合でノーヒットノーランを達成。夏の県大会初戦の倉吉工戦でも自慢の速球を武器に6回を4安打無失点に抑えた。チームは準々決勝で鳥取城北に敗れたが、この試合でも加藤は2回途中にKOされた3年生のエースをリリーフし、9回まで投げ切った。

 だが、これが高校最後の公式戦登板となった。9月に新たな不祥事が発覚し、謹慎明け直後の再発だったことから、1年間の対外試合禁止処分を受けてしまったのだ。

 最も活躍が期待された高校最後の1年間を棒に振った加藤に、野球部長は「5位か6位指名なら、大学で力をつけてからでも遅くない」とへの進学を勧めた。

 ところが、ドラフト当日、高校ナンバーワン左腕・小野和義(創価高)の競合抽選で近鉄に敗れた南海が、外れ1位として中央球界では無名だった加藤を指名してきた。鳥取県の高校生が1位指名されたのは、史上初の快挙だった。近畿大呉工学部に「8~9割進学だった気持ちが、1位指名で6~7割になった」とプロ入りに傾いた加藤は、1年目から33試合に登板して5勝4セーブを記録するなど、広島、近鉄、オリックスの計4球団を渡り歩き、通算92勝12セーブを挙げた。

「こりゃ、いかん。もっと練習しなきゃ」

 意中の球団が本命、外れ1位と相次いで抽選を外したことが回りまわって、予想もしなかった“外れ外れ1位”指名を受けたのが、1995年の中日1位・荒木雅博である。

 熊本工時代、94、95年と2年連続センバツに出場し、俊足と堅守をアピールした荒木は、ドラフト前に中日から「3、4位で指名する」と約束されていた。

 だが、7球団が競合した“本命”福留孝介(PL学園)の抽選に外れた中日は、外れ1位の原俊介(東海大相模)の抽選でも巨人に敗れ、上位指名候補を2人とも逃してしまう。あまりのくじ運の悪さに、星野仙一監督が「勝手にせえ!」とヤケになったという話も伝わっている。

 一方、学校内のセミナーハウスでエースの松本輝(ダイエー2位)とともにドラフト中継を見ていた荒木は、中日の2位が逆指名の門倉健(東北福祉大)だったことから、「(順位が繰り上がって)1位は自分では?」と予感したという。はたして、中日は荒木を1位で指名してきた。

「子供のころから1番好きだった」球団の最高評価を喜びつつも、荒木は「僕が1位でいいのかなと。こりゃ、いかん。もっと練習しなきゃと思う。“何でこいつが1位なんだ”とバカにされたくないし。1日も早く立浪(和義)さんと二遊間を組めるようになりたい」とさらなる精進を誓い、6年目の2001年にレギュラー定着。井端弘和と“アライバコンビ”を組み、通算2045安打、378盗塁を記録するなど、ドラフト1位の名にふさわしい名選手になった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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