【どうする家康】ムロツヨシが怪演 史上最恐の秀吉こそ本当の秀吉と言い切れる理由

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秀吉の本音「この世はそんなに甘くねえ」

 この「太閤、くたばる」の回には、ほかにも印象的な場面があった。

 最初に史実から説明する。慶長3年(1598)春に体調を崩した秀吉は、まず、拾あらため秀頼の立場を固めるように努めている(数え6歳で従二位権大納言になった)。7月に死期を悟ると、秀頼への忠誠を誓う起請文を、諸大名にあらためて提出させた。そして8月には病床で、これまで政権の実務に当たってきた石田三成ら5人の側近に加え、徳川家康や前田利家ら5人の有力大名に、5人の側近を補佐し、彼らの実務を権威づけるように求めた。いわゆる五奉行と五大老である。

 ただし、政権は秀吉が「太閤様御置目」に定めたとおりに運営されることとなった。つまり、幼い秀頼を残して自分はこの世を去る、という緊急事態を前に、なんとかそれを乗り越えるべく、合議によって政権を運営する臨時の体制を作ろうとしたのである。

 では、ドラマの秀吉はなんと言っていたか。病床を尋ねた家康が「世の安寧、民の幸せを願うならば、最後まで天下人の役目を全うされよ」とけしかけると、こう語りはじめた。「そんなもん、ウソじゃ。世の安寧など知ったことか。天下なんぞ、どうでもええ。秀頼が幸せなら、無事に暮らしていけるなら、それでええ。どんな形でもええ、ひでえことだけはのお、しねえでやってくれ」

 家康が「情けない。これではただの老人ではないか」と言うと、秀吉は続けた。「天下はどうせ、おめえに獲られるんだろ?(中略)知恵出し合って話し合いでする?そんな、うまくいくはずがねえ。おめえもようわかっておろう。いまの世は、この世はそんなに甘くねえと。豊臣の天下はわし一代で終わりだわ」

歴史ドラマだからこそ描けること

 史料から読み取れるのは、死を前にした秀吉が、豊臣家の天下をなんとか維持すべく、最後まで必死にあがいて体制づくりに勤しんだということである。だが、はたして秀吉は、そうして緊急時の体制を築けば豊臣政権を永続させられると、思っていたのだろうか。

 本能寺の変後、清須会議で決めた織田政権の運営体制を、短時日にくつがえして政敵を追い払い、みずから政権の座についた秀吉である。どんなに緊急体制を敷いたところで、自分がいなくなればふたたび争乱が起きる。実力者に天下を奪われる。だれよりもそういう未来を予測したのではないだろうか。

 しかし、それは史料には残らない。秀吉の本音あるいは疑心暗鬼は、文字から読みとることはできないので、歴史学の対象から外れる。容易に想像できることであっても、証明することはできない。そんなときこそドラマの出番である。『どうする家康』の秀吉は、狂気とともに、歴史学がすくい上げられない権力者の本音を見事に描いていた。

 家康の正室で、最後は謀反にも関わったのがまちがいない築山殿を、平和を望んだ聖女のように描いたのをはじめ、残念な描写も目立つ『どうする家康』だが、秀吉は過去に例がないレベルで秀吉らしかった。こうした骨太の描写を重ねれば、小手先の「お花畑」などに頼らなくとも、十分に見応えのある歴史ドラマになったと思うのだが。

香原斗志(かはらとし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史を中心に幅広く執筆するが、ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論家としても知られる。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』など。

デイリー新潮編集部

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