【どうする家康】ムロツヨシが怪演 史上最恐の秀吉こそ本当の秀吉と言い切れる理由

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無実の女子供三十数人、時間をかけて惨殺

 いずれも取るに足らないことに対するあまりに凄惨な刑罰で、読むのもつらいかもしれないが、秀吉を理解するために、もう少しお付き合いいただきたい。甥の豊臣秀次の家族を惨殺した秀次事件には、触れないわけにはいかない。

 秀吉は嫡男の鶴松が死んだのち、姉の息子の秀次に関白を譲ったが、その後、拾が誕生した。豊臣家を拾に譲りたい秀吉にとって、秀次が邪魔になったことはだれの目にもあきらかだったが、しばらくは2人の関係に大過はなかった。だが、文禄4年(1595)7月、事態は急に動いた。8日に秀次は高野山に入山し、15日に切腹する。

 これについては、秀吉が切腹を命じたという説と、秀次が無実を訴えるためにみずから腹を切ったという説に分かれているが、いずれにせよ秀吉は、こうなったからには秀次に謀反の罪を着せるしかない。8月2日、秀次の5人の遺児(3人という記述もある)と正室、側室、妾、侍女ら計三十数人は死に装束を着たうえで7台の車に分乗させられ、京都の市中を引き回されたのち、三条河原に運ばれた。

 河原には土が盛られ、その上に三宝に載せられた秀次の首が置かれていた。そして、各人はその首を拝まされたうえで一人ずつ斬首されていった。殺戮は衆人環視下で5時間におよび、処刑が終わると遺体は一カ所に集められて土が盛られ、「悪逆塚」と刻まれた碑が立てられたという。矢部健太郎氏は「刑罰史上も稀にみる残虐さであった」と記す(『関白秀次の切腹』)。

『どうする家康』の第39回「太閤、くたばる」(10月15日放送)で、生まれたばかりの拾を前にして、「寧々、茶々、これに粗相した者がおれば、だれであろうと成敗してよい」と言い放った秀吉。諸大名に再度の朝鮮出兵を命じて、「歯向かう者は老若男女僧俗にかかわらず、なで斬りにせえ」と鼓舞した秀吉。その際の狂気をはらんだような表情と口調も含めて、上に挙げた事例とのあいだに違和感がない。

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